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                  わが生涯を顧みる(4)

            こどもた
            ちと共に  ひたむきに生きた30年        中沢政雄著

編集中





                     もくじ

   前書き ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1
一 大自然の中で
 1 貧しい家に生まれて ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・3
 2 利根川原で
    蜂退治 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・5
    野火 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・5
    石割りの術 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・6
    岩乗り ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・7
    桃ぬすみ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・8
    兵隊ごっこ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・9
    魚釣り ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・9
 3 河川工事に雇われて
    父の砂利積み ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・12
    シャベルを使うこつ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・13
    蛸突きと土破打ち ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・14
    草刈りのこつ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・15
 4 百姓仕事の手伝い
    米作りの手伝い ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・17
    麦作りの手伝い ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・18
    養蚕の手伝い ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・20
    小学校では ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・21
    工業学校の入学試験・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・24
二 大正デモクラシーの中で
 1 自由に生きた学校生活
    デモクラシー教育はどこへ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・27
    大八車をひく少女 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・28
    県知事が視察に来た日 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・30
    数学のS先生 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・32
    実習工場の製図室 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・33
    図画室から汚水 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・34
    わたしを育ててくれた両親 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・35
三 織物工場の職工になって(十九歳) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・44
四 子どもた
  ちと共に ひたむきに生きた三十年
 1 教育事始め(茅ヶ崎町立鶴嶺小学校二一十歳)
    小学校教員になる ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・46
    職員会議 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・47
    過案 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・48
    謄写刷りの紋勤届 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・48
    体操研究会 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・49
    わたしの国語研究 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・52
    子どもたちと江之島へ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・53
    封建的な教育社会 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・54
    子どもたちとの別れ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・56
    教員生活断片 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・57
 2 水を得た魚のように(田浦町立船越小学校二一十二歳)
    再び教育界へ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・62
    困った唱歌の時間 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・62
    試行錯誤を知る ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・63
    子どもに教えられて ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・64
    子どもの個性的な絵を ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・65
    野外写生 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・67
    三年生の作文 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・68
    宿直の夜 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・69
    円覚寺近く ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・70
    こんな授業 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・71
    楽しい理科の授業 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・72
    修身教育の研究 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・73
    横須賀市の修身教育研究会 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・76
    算術教育の研究 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・77
    一人一研究 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・79
    自由教育思潮を追って ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・80
    文検国語・漠文 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・81
    子どもたちと ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・84
    創作の心燃えて ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・96
     @ 万葉集物語 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・96
     A 古事記物語 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・99
     B 脚本 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・104
     C 伝記 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・113
     D 創作 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・114
     E 児童詩の鑑賞と批評 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・115
     F 社会に目を ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・122
 3 溌刺とした青年たちと(横浜元街商業専修青年学校・二十九歳)
    第二の転機 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・133
    元街公園で ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・134
    日蓮上人鎌倉遺跡めぐり ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・135
    文集を作ろう ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・136
    転任・出向事情 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・140
 4 太平洋戦争始まる(群馬県立伊勢崎商業学校二二十二歳)
    郷里へ戻ったが ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・144
    朝礼は分列式 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・145
    軍隊教育一点張り ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・145
    生徒の作文と方言研究 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・147
    梅根悟校長と会う ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・148
    太平洋戦争始まる ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・149
 5 戦争中の教育(埼玉県川口中学校二二十五歳)
    埼玉県川口中学校誕生 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・150
    水訓万歳 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・151
    防空壕のトンネル掘り ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・152
    勤労動員 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・153
    夜間行軍 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・154
    新年祝賀式 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・154
    生活指導
     @ 食事と学習 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・155
     A 服装検査 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・156
     B 忘れ物 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・157
    不適応生徒 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・157
    能力別編成による集団学習指導 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・158
    国語科の研究
     @ 漢字の学習 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・159
     A 文法の学習 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・160
     B はっきりものを言う ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・161
    海軍兵学校入学試験行 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・161
    転任の決意 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・162
 6 戦中戦後(群馬県立前橋中学校三十七歳)
    前橋中学校へ転任 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・165
    援農の勤労動員 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・166
    軍需工場への動員 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・167
    敗戦と教育改革 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・168
    生徒図書館の運営 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・169
    全校生徒のストライキ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・170
    予科練帰りのA君 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・170
    高崎観音山公園遠足の事故 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・172
    生徒を預かる ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・174
    わたしの文化活動 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・174
    『季刊・国語』の発行 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・175
    講習会・研究会の開催 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・177
    邑楽弁の研究 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・177
    「ヒ」と「シ」の混同は地方から ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・180
    アクセントの歴史的変化 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・180
    国立国語研究所へ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・182
    文部省の研究助成費を受ける ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・184
    歌誌『アララギ』の発送 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・184
 7 急遽上京(世田谷区立千歳中学校・四十四歳)
    世田谷区立千歳中学校へ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・186
    高校入試準備指導廃止 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・186
    夏季施設 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・187
    教師の遅刻解消 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・188
    都の管理主事に叱られる ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・189
    文部省中・高学習指導書編成委員となる ・・・・・・・・・・・・・・・・・・190
 8 最後の教職(東京都立神代高等学校・四十六歳)
    高校の言語指導 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・191
    国語指導の風景 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・192
    生徒の指導
     @ K女子生徒の場合 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・194
     A N男子生徒の場合 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・195
    「十二月から指導主事だ」 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・196
  あとがき ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・198

  前書き

 昨年は、「わが生涯を顧みる」@『奈良の仏たちを訪ねて七十年』、A『美に生きる−自  1
然の美・芸術の美−』、B 万葉漫歩・万葉人と共に』の三冊を上梓した。しかし、読んでみ
ると、わたしの教員生活の真実の姿がどこにも見えない。
 わたしには、子どもたちと共に、真剣に生きた教員生活の真実の姿があったはずだ。そ
れは、利根河畔の大自然の生活の中に芽ばえ、工業学校に入って、海堂中島新太郎先生の
薫陶を受け、人間日蓮・良寛に憧れ、わが両親の愛育を受けてすくすくと伸び育ったもの
が、その基盤になっている。
 以後、代用教員になってからは、石川啄木の向こうを張って日本一の代用教員になるこ
とを志とし、教員たるものは、子どもたちに先立って学び、先立って進み、子どもたちの
真実を開発しなければならない。そう思って子どもたちの教育に専念して来た。
 だから実行したさまざまな教育活動、多彩な教員生活は、そのまま真実の姿を、赤裸々
に誠実に書いた。                                   2
 誠実に真実を書いたとしても、日々に管理化されていく教育社会や進歩してきた教育思
潮にともなって、教育に関わっている人達の目には、それらの活動や生活は、恐らく容認
できない事実として目に映るに違いない。
 それを承知の上で敢えてわたしの信念として書き綴ってきた。それがいいにしろ悪いに
しろおのれを正しく知る資料として書いておきたい。ただそれだけのことである。

                                           3
      一 大自然の中で

   1 貧しい家に生まれて

 わたしは、明治四十年四月十五日に女兄弟六人の中に、ぽつんと一人長男として生まれ
た。五人めの誕生だという。父は利根川原の玉石を採取して舟に積んで、利根川を下っ
て、東京方面に売りに行く船頭であった。大酒飲みであったが、胃潰瘍で吐血してからは、
ぷっつりと酒をやめたと、母がよく話してくれた。
 わたしは物心ついてから、父が酒を飲むのを見たことがなかった。それでも終生胃を病
んで、胃潰瘍で亡くなった。六十二歳であった。父は子煩悩でわたしはよくかわいがられ
た。
 「赤貧洗うが如し」ということばがあるが、そのころ家は貧乏のどん底にあった。姉たち
は奉公に出て、一人の姉が、大島餅の賃機を織って家計を助けていた。雨の降る日などは、
ぼつりぼつり雨が漏るのを、あっちこっちと金だらいや楠を持って右往左往したのを覚え
ている。                                       4
 家は利根川の瀬音が絶えず聞こえる礼幣使街道の渡し場の近くにあった。利根川には板
橋が架かっていた。板橋だから荷車が渡るたびに、ごろごろと大きな音がする。すると、
わたしは「雷だ」と言って、青くなって家に駈け込んできたと、母によく言われた。そん
な臆病で気の弱い子どもであった。
 この橋をはさんで、川向こうの中町の子どもたちとよくけんかをした。けんかと言って
も橋をはさんでの石合戦である。石合戦は、橋の中ほどまで行って石を投げては逃げかえ
る。すると今度は中町の子どもが橋の中ほどまで追ってきて石を投げつける。この繰り返
しであった。
 だから、石を遠くまで投げとばす方法を工夫した。五十センチばかりの竹の先に結んだ
紐で、手ごろの石をしぼりつけ、くるくる回して石を投げる方法である。その石の縛り方
を工夫した。縛った石を振り回して投げる瞬間に石ころを縛った紐が解けるような縛り方
である。
 川向こうの橋のたもとに一軒の茶店があった。投げた石がたまたま駄菓子入れの箱のガ
ラスを割ることがあった。すると店番をしているおばあさんが出て来て大声でどなる。そ
んなこともあった石合戦であった。こんな石合戦はたびたびやったが、そんな遊びの中で
もわたしたちの智恵は育っていった。
                                           5
   2 利根川原で

 利根川原の自然は、意気地のないわたしを、良くも悪くも鍛えてくれた。わたしを人並
の子どもに育ててくれたように思う。

   蜂退治

 広い石河原には、あちらこちらに野ばらが白いきれいな花を咲かせていた。その野ばら
の中には、足長蜂の巣があった。わたしたちはよくその蜂退治をやった。みんなはだかに
なって。口笛を吹きながらはって巣に近づいていく。近づくと棒の先につけた火で、巣に
いる蜂を焼き殺すのである。
 口笛を吹くのは、蜂を近づけない呪文であり、はだかになるのは、蜂に着物の中に入ら
れてさされないようにするための智恵であった。こうして蜂を焼き払って取った蜂の巣を
どう処理したのか記憶にない。ただ蜂退治をすることが、楽しい遊びだったのであろう。

   野火

 広い芝原は、野火をつけて遊ぶ恰好な場所であった。上州の空っ風の吹く中で、勢いよ
く燃え広がる野火はまことに壮観であった。しばらくの間は、燃え広がる野火を見ている   6
のは楽しかった。しかし、燃え広がる野火がだんだん勢いを得て、土手近くまで燃え広が
っていくと、気が気ではなかった。家に近い土手まで燃え広がっては大変だ。だれ言うと
なく消そうと言い合っても、素手で消すことはできない。でもすぐ無言のうちにみんな着
ている羽織をぬいでばたばた火をたたいて、一所懸命に消し始めた。
 野火はやがて消え、焼け跡だけが黒々と不気味に見えた。それよりも困ったのは、それ
ぞれ羽織に焼けこげができていることだった。焼けこげた羽織を見てみんな悄然とした。
わたしは、焼けこげの跡がわからないように、くるくるっと羽織をまるめて、押し入れに
投げ込んでおいた。そして素知らぬ顔をしていたが、すぐ母に見つかって、大目玉を頂戴
した。そんな野火も心をはずませる遊びであった。

   石割りの術

 利根川で泳ぎ疲れると、みんな石河原に上がって甲羅をほすのが常であった。そんな時
にはおもしろい形をした石ころを拾ったり、石と石とをぶつけ合って遊んだりした。たま
たま石と石をぶつけ合っていたらぽかっと割れた。それがもとで、げんこつで石が割れな
いかと、甲羅をほすたびに、割れそうな石を見つけてはたたいていた。しかし堅い石をこ
ぶLでたたくのだから痛い。ところが、細長い石を選んで左手で持ち、右手で思い切って
たたいてみた。するとたたいた石が下の石にぶつかってぽかっと割れた。まるで、空中で   7
たたいた石が割れたように見えた。それに勢いを得て、細長い石を見つけては、痛いのを
我慢して、思い切ってたたくうちに、容易に石を割ることができるようになった。しかも、
ぽかっと割れる時には、手もあまり痛くなかった。
 こうして石を割って遊んでいるうちに、たたいた石が、下の石にぶつかってはね返る反
動で石が割れることがわかってきた。もちろんたたくと言っても、痛いことなど思わず、
思いっきり力をこめてたたく。するとぽかっと割れて手もそんなに痛くない。この石割り
のこつを覚えると、それがわたしの特技になった。この特技は五十歳ごろまでいろいろな
場面で披露して、さまざまな話題になった。

   岩乗り

 利根川の急流には、至る所に流れをかぶっている大きな岩があった。それがわたしの冒
険心をそそっていた。泳いで行ってあの岩の上に立ってみたい。いつもそう思っていた。
 しかし、岩に向かって泳いでいっても、岩のそばまで行くと、つい左右にさけてしまう。
思案の末に、背泳ぎをして、岩に近づいて岩に足をかけて立ち上がればいいと気がついた。
けれども、足をかける位置を決めることと、川の流れの勢いを、背中にどのように受ける
かがむずかしかった。
 結局足を岩に向けて背泳ぎで近づき、若の上の方に足をかけ、流れに背中を押してもら   8
って立ち上がればいいことに気がついた。それを繰り返している間に、楽々と岩の上に立
つことができるようになった。足首のあたりを流れがくすぐるように流れていく。それを
感じながら岩の上に立って、あたりを見回して得意になっていた。これもわたしの特技の
一つであった。こうして、自然の中で遊びながらあれこれ考える力が磨かれていったよう
に思う。

   桃ぬすみ

 川向こうに渡ると、土手に沿って桃畑があった。子どもの冒険心といたずら盛りの子ど
も心から、利根川の急流を泳ぎ渡って、その桃を盗みに行くことになった。と言っても、
急流を泳ぎ渡って、桃畑のある岸に着くのは、容易なことではなかった。何度か失敗の挙
げ句ようやく、この辺から泳ぎ出して、流れに逆らわず、流れの勢いを利用すればいいこ
とがわかった。高等科の生徒を先頭に、一列になって桃畑の岸に泳ぎつく。岸にあがって
土手にあがった所で、「こらっ!」と大きな声でどなられる。みんなあわてて川へ飛び込
んで逃げ帰ってくる。桃を取るどころか、桃畑に近づくことさえできない。それでいてお
もしろがって繰り返した。冒険心を蒲足させてくれたからであろうと思う。桃をぬすみに
行くことがよくないことは百も承知の上での遊びであった。
                                           9
   兵隊ごっこ

 兵隊ごっこは、川向こうの広い原っぱでやった。それを計画してやるのは高等科の生徒
はいのう
であった。背嚢、サーベル、鉄砲、らっぱなど十人分ぐらいあったと思う。みんな立派な
もので、今考えれば、軍隊からの払い下げ品ではなかったかと思う。お寺の入り口にあっ
た鐘つき堂(鐘楼)の階下にきちんと整理して保管されていた。これらは高等科の生徒用
のもので、わたしたちは木製の銃を持つ兵卒であった。
 高等科の将校に指揮されて、砂山の陰や松の木の陰からパン、パンとか、ドーン、ドー
ンとか、ロ鉄砲や口大砲で戦った。時には将校の突貫とか、突っ込めとかいう号令で、ら
っぱに合わせて・わあーつと敵陣に突っ込んでいった。血のおどる兵隊ごっこであった。
まだ日露戦争、日独戦争の勝利の夢からさめきらないころであった。兵隊ごっこは、本気
になって遊ぶ楽しい遊びであった。

   魚釣り

利根川は家から三、四分の所を流れている。だから朝早く起きるとすぐ河原へ降りて流し
で釣りをする。釣れるのはわかさぎかはやである。はやは勢いよく食いついて、ぐんぐん
引くのを、静かに逃げられないように引き上げる時は、特に胸が踊った。また、それが
うれしかった。                                    10
 朝のもう一つの楽しみはながな(はえなわ)であった。針には十センチばかりの大きな
めめず(みみず)の餌をつけ、紐の両端には、流されないように重しの石をつける。
 それを夕方、川の流れの沖から岸に向けて沈めておく。それを翌朝早く起きて引きあげ
に行く。今朝は何がかかっているかな、うなぎかな、なまずかななどと、期待しながら引
きあげていく。それが何とも言えぬ楽しみであった。ながなの端に手をかけると、すぐ手
応えを感じて、ああ、なまずだななどと心をはずませてヽヽヽ引きあげていく。果してな
まずが二匹もかかっている。そんな時は急いで家に帰って、得意になってみんなに見せる。
 魚取りは、朝は釣り、夜はながな、昼間はギヤーマンどう。ギヤーマンどうには、煎っ
た香ばしいこぬかを入れ、入口を下流に向けて浅瀬に沈めて置く。魚は絶えず流れにさか
らって泳ぐ性質があるから、入口から中へ入るともう出られないようになっている。
半日も沈めて置くと、わかさぎゃはやが、白い腹を見せて泳ぎ回っている。それを見ると
もうそれだけで心が躍った。
 魚取りは、他の遊びと違って、一人だけのしみじみとした楽しみであった。
                                           11


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     3 河川工事に雇われて

 わたしが小学校四年生のころだったと思う。内務省の利根川改修工事が始まった。水害
を防ぐために、川向こうの広い河原から、砂利や砂を運んで、川の両側に堤防を築くとい
うのであった。わたしは、日曜・祭日や春休み、夏休みには、この工事に雇われて働いた。
朝早くから夕方まで働いて、日給十三銭であった。

   父の砂利積み

 堤防を造るには、河原の砂地の下に積もっている玉石混じりの砂利を掘って積んでト
ロッコで運ぶ。トロッコを引っ張るのは馬であった。砂利の採取場から土手を造る所まで
は三、四百メートルもあったろうか。その間を馬がトロッコを引っ張って往復する間に、
別のトロッコに砂利を積む仕事であった。重いつるはしで砂利を掘りくずし、シャベルで
トロッコに積む重労働であった。
 体が弱って船頭をやめた父は、胃をわずらいながら、この工事に雇われて、人夫となっ
て働いた。わたしは、学校が終わると急いで家に帰って、母が作った握り飯やふかしたあ
ったかいさつまいもを持って、川向こうの砂利採取場まで届けに行った。そして、父が
おやつを食べる間、シャベルで砂利を積む手伝いをした。                 13
かんだら
 人夫の仲間に神立という屈強の青年がいた。早く自分の砂利積みを終えると、いつもお
そい父の手助けをしてくれた。というのは働き疲れている時に、父から握り飯をもらって
元気を取り戻したことがあった。そのお礼だと言って、せっせと父のトロッコに砂利を積
んでくれたのであった。
 なかなか風流な青年で、鉢巻きに梅の小枝をさして働いていたこともあった。わたしは
子ども心にも、体に似合わず優しい親切な青年に親しみを感じていた。
 父は、こうしてしばらく働いていたが、やっぱり重労働はむりで、人夫をやめ僅かな田
畑を借りて小作人になった。それからわたしも田畑の仕事の手伝い−麦刈りや稲刈り、田
の水回りをしたり、てんが(鍬)やえんが(鍬)を使って畑を耕したりした。そして百姓
経験をした。

   シャベルを使うこつ

 砂利を運んで、土手の基礎が固まると、今度はその上に砂を盛って固める。砂運びは砂
利の場合と同じであった。わたしもその砂をトロッコに積む仕事に雇われて働いた。働い
ているうちに、シャベルを使うこつと、効率的な砂の積み方を体得した。
 シャベルを左手でしっかり持ち、右足でぐっと砂の中に踏み込み、右手で砂をすくつて   14
ぐっと放る。すると砂は、シャベルの先の形のままに放られる。この時、右手はぐっと力
を入れて放るだけで、シャベルを握っていない。自由にする。掘っていては砂はうまく放
れない。
 それから、一番大事なことは、腰のひねり方である。腰を上手にひねって、砂をトロッ
コの中に投げ入れる。それがシャベルを使うこつである。シャベルで砂を積み込むのにも
工夫がいった。いろいろ積み方を考えたが、結局一番自然で効率的な方法は、トロッコの
真ん中に、尖った山を作りながら積む方法であった。
 こんな工夫をしながら、トロッコの砂積みをした。この時は、日給十五銭になっていた。
たこどは
 蛸突きと土破打ち土手の蛸つきや土破打ちというのは、砂利を積み上げた斜面の上を、
厚く砂で覆い、その上を突き固めたり、斜面を棒でたたいたりして固める仕事であった。
これは、いちばん単純でやさしい仕事である。だから、雇われると最初に与えられる仕事
であった。みんな中町や五料の小学生で、一人の監督の指揮に従って働いた。いつも監督
がみんなの仕事振りを見ていて、日給を決め、夕方帰る時にそれをもらった。わたしは体
が余り丈夫でなかったから、いつも最低の十三銭であった。中には十四銭、十五銭のもの
もいた。
 蛸つきは、三列に並び、監督の音頭に従って、ドシン、ドシンと砂を突き固めながら、二
十メートルぐらいの所を往復した。もちろん蛸は子ども用に作られたものであるが、軽重   15
の差があった。だからみんな軽いのを使おうと、争って早く出かけていった。
                                  かみて    しも
土破打ちは、十人ぐらい一列に並んで、これも始めは監督の音頭に従って、上手から下

手へ、下手から上手へと、土破棒を振りかぶっては、どん、どんとたたき固めていった。

手へ、下手から上手へと、土破棒を振りかぶっては、どん、どんとたたき固めていった。
斜面が固め終わると、今度は仕上げの土破打ちをした。
 これも一列に並んで、「着いた着いたよ、かみちょに着いたようほい、かみちょ着いたな
らこりゃしもちょうまでよう」と、歌いながら斜面を土破棒で軽くたたいていった。こう
して二、三回往復する。これは中腰になってたたいていくのだから、ずいぶんつらいこと
であった。
 わたしは、この仕事を通して、多くの人たちと一緒に仕事をしたり、談笑したりする楽
しみを経験したり、人見知りをすることが少なくなったりしたように思う。

   草刈りのこつ

 土手が出来ると、芝が張られ、やがて土手一面に、雑草が生えて伸びていった。その土
手の草を、鎌で刈るという仕事があった。わたしはその草刈りの仕事にも雇われて働い
た。土手の斜面を十メートル、二十メートルと区切り、その範囲の草を、これだけ一日に
刈るというのがノルマであった。
 わたしは、草刈りという経験を全くしたことがなかった。だから中町の仲間にいろいろ   16
と教えてもらった。
 草は、まだ朝露が残っていて、しゃきっとしている時がいちばん刈り易いこと。砥石で
鎌を研ぐ時に指を切り易い、そこで砥石の持ち方と研ぎ方のこと。草を刈っていて、鎌が
切れなくなってから研ぐよりも、少し切れ味が落ちたらすぐ研いでは刈るという方が、効
率的であることなど、いろいろ草刈りの智恵を教えてもらった。
 そうして、草刈りを繰り返している間に、上手な刈り方を工夫した。草はいくら腕に力
を入れてもなかなかうまく刈れない。それよりも、鎌を持つ手首をやわらかく動かして刈
る方がよく刈れることがわかった。そこでいちばんよく刈れる動かし方を会得した。
 つまり、草刈りのこつは「手首の使い方にある」ことを悟った。それは手首を振るよう
にやわらかく動かして、鎌の刃先がいつも草に直角に当たるようにすることであった。こ
の刈り方をするようになってから、草刈りはぐんぐんはかどっていった。
 後年寺田寅彦の随筆を読んだ中に、「バイオリンを弾くこつは手首にある」とあるのを
知ったとき、草刈りのこつと同じだと思った。 この草を刈っている最中に、一番上の姉
の計報を聞いて、急いで家へ帰った。泣きながら駈けて行ったことを思い出す。六年生の
時であった。この時に悟った草刈りのこつは、父が百姓をするようになって堆肥を作るた
めに、朝草刈りをする時に大変役立った。
                                           17
     4 百姓仕事の手伝い

 父は体が弱って船頭をやめ、利根川の河川工事に雇われて働いたが、それも重労働に堪
えられないで、百姓になった。それにつれて、わたしの仕事にも、新たな百姓の仕事が加
わった。日曜・祭日・春夏の休みには、河川工事に雇われ、平日は百姓の仕事を手伝うよ
うになった。
たん
たんぼは一段(約三アール)、畑は二段ばかりの小作であった。たんばでは、米や麦を作
り、畑は桑畑と野菜作り用であった。春と秋には蚕を飼っていた。

   米作りの手伝い

 田植えが終わると、朝早くたんばの水回りをした。水を張り、出穂水など、水の管理が
わたしの仕事であった。田の草取りは父がした。やがて稲が実ると稲刈りの手伝いをし
た。のこぎり歯の稲刈り鎌で、ざくつ、ざくっと刈るのは気持ちがよかったが、すぐ腰が
痛くなった。
 稲刈りのころは、たんばがすっかり乾いているので、刈った稲はそのままたんばに寝か
せて、陽にあてて乾かした。乾いた稲はまるいて車に積み、父が曳きわたしが後押しをし
て家へ持ち帰る。それからが大変であった。                       18
 稲こき(千歯)で脱穀し、籾摺りで籾がらを取り、とうみ(唐箕)にかけて、米と籾が
らを吹き分けて玄米にする。この仕事は、近所の人や親類のものが集まって大人のする仕
事であった。
 玄米は俵につめて庭に積む。たいてい一段から六俵ぐらいとれる。検査をする人が来
て、検査に合格すると、そのうち四俵は小作米として、地主の所へ届けた。父が車を挽き、
わたしが後押しをして持っていった。あんなに苦労して作った米を、四俵も納めて、あと
二俵がうちの取り分だと、思ったら涙が出そうになった。それでも、米びつが空になって、
袋を持って、一升、二升と米屋へ買いに行くよりはましだと思った。
 父が、胃をわずらいながら田仕事、畑仕事をするのを見るのは、つらいことだった。

   麦作りの手伝い

 まんのう
 田は、二毛作で、裏作には小麦を作った。稲の切り株を万能(鍬)で掘り起こして、そ
れが乾くと、今度はその土くれをくだいて、地ならしをする。それは父の仕事であった。
学校から帰ると、母が用意したお茶と、ふかしたさつまいもをたんばへ持っていった。田
のくろで、父がお茶を飲んで休んでいる間じゅう、わたしは、重い万能で土くれを砕く手
伝いをした。
 たんばが耕されると、さくを切って麦を蒔いた。翌年の二月ごろになると、麦は十セン   19
チばかりに伸びて、麦踏みをした。寒い北風が吹く中を、背中を丸めて、父と二緒に麦を
踏みつけていった。
 やがて四月ごろになると、空高く雲雀が気持ちよそそうにさえずって、麦は穂を出す。
このころが一番楽しい時期であった。学校の帰りには、よく麦の穂を抜いて麦笛を吹きな
がら帰った。田のくろには、れんげがきれいに咲き、地しぼりが、小さな黄色い花を咲か
せていた。広いたんばの真ん中を、広い礼幣便街道が通っていた。その街道の砂利道を、
みんなで、おしゃべりをしたり、いたずらをしたりしながら学校へ通っていた。
 六月、黄色く麦が実った麦田を見るのは、子ども心にも気持ちがよかった。そして、い
よいよ麦刈りが始まる。稲刈り鎌は、のこぎり鎌だったのに、麦を刈る鎌は草刈り鎌と同
じであった。初めのうちは、それが不思議でならなかったが、刈っているうちにすぐ分か
った。稲わらはやわらかいが、麦わらは、かりかりつと固いから、のこぎり歯ではすべっ
て刈りにくいからであった。そんなことを思いながら、一所懸命刈った。
 麦は米と違って、あまり手間がかからなかった。麦打ち台で、たたいて脱穀すれば、そ
れでよかったから、思うように手伝うことができた。はっきり覚えていないが、学校の北
の方を流れている小川に水車小屋があって、よくそこへ粉をひいてもらいに行ったように
思う。この麦作りが、何よりもうれしかったのは、地主に麦を納めなくてもよいことで

あった。                                       20

   養蚕の手伝い

 家は八畳に、六畳と台所だけで、狭かったが、世間並みに、春蚕と秋蚕を飼っていた。も
ちろん、収穫した繭を売って生計を立てるためであった。だから、苦しいのをみんな我慢
して、不平も言わず、両親を助けて働いた。
 種屋から蚕の種紙を二、三枚買って、真っ黒な毛蚕から育て上げるのだから、両親は大
変であったが、母が中心になって世話をした。毛蚕にやる桑は、枝先のごくやわらかいの
を摘んで、細かに切って振りかけるようにして食べさせた。特に部屋の温度の調節がむず
かしく、寒い時には、火鉢で炭火をたいたりした。
 桑つみも、上族時のず(熟蚕)拾いも、繭かきもみんな手伝ってやった。蚕があがって
繭ができると、繭かきはすべて家の者でした。やがて、繭買いがやってきて、出来ぐあい
を調べ、目方を計って一貫めいくらで買っていく。いつも、高い値で売れるようにと思い
ながら商人を見つめていた。高い値で売れた時はうれしかった。
 当時を偲んで詠んだ歌が、歌集「望郷」の中に、次のように記されている。
      桑の実の赤きを見れば貧しさに夏蚕を飼ひし父母偲ばるる
      蚊帳もつれず夏蚕と寝ねし狭き家も今なつかしく思ひ出でらる
      蚕のにはひ家にこもりて眠られぬ幾夜かありし幼なかりし日よ         21

   小学校では

 わたしの生まれた芝根村は、南北に礼幣使街道が走り、それが利根川を渡る所に五料の
関所跡が残っている村である。その村の中央に、村役場と小学校が、礼幣便街道をはさん
で、ぽつんと建てられていた。
 校舎は、鍵形に建てられていて、南北の校舎の中央に玄関と職員室があり、玄関の前に
はみごとな築山があった。校庭の隅には、大きなポプラの木がそびえ立っていた。その隣
には、広い藤棚がみごとな花房を垂れ、大きなだんごばちが蜜を吸いにくる。その様子が
今でも目に浮かんでくる。ここで、六か年を過ごしたが、いろいろなことが思い出される。
 一年は、やさしい木暮先生、二年は神主で厳しい和田先生、三年は日本画家の田村先生、
四年は太った金子先生、五年は思い出せない。六年は教頭の西村先生が担任であった。
 一年の時教科書に「マサヲガホンヲヨンデヰマス」というのがあった。すると木暮先生
が、「ちんこう(先生がわたしを呼ぶ時の愛称)ここへ来て読め」と言われて、机を窓ぎ
わに寄せて、そこに座って読んだのを覚えている。
 三年の雪の降る朝であった。一年生が校庭で歩けないで困っているのを見た。わたしは
急に窓から飛び降りて、一年生を教室まで連れて行った。あとで、田村先生から、窓から
飛び出すやつがあるかと、職員室に呼ばれて叱られた。                  22
 これも三年の時であった。飛行機が角渕の河原に不時着したことがあった。みんな先生
に連れられて見に行った。ところが、わたし一人だけ教室に残されて、連れて行かれなか
った。なぜだったのか思い出せないが、きっと悪いことをしたのであろう。
 また、六年の時、師範学校を出たばかりの女の先生に唱歌を教わった。それまでは、唱
歌と言えば、「守るも攻むる黒がねの…」と、軍歌ばかりどなっていた。それなのに、先
生は、声の出し方とか、黒板に五線を引いて、音符を書いて、これを見て歌えと教えられ
た。
 音符など見たこともない。みんな分からないと騒ぎ出した。先生は怒って職員室へ行っ
てしまった。さあ大変、こんなことは今まで一度もなかった。結局謝って来い、謝って来
いと言われて、わたしが職員室へ行って、「もう騒ぎません」と謝って、先生に来てもら
った。そんなこともあった。
 家が留守になった時には、何度か一番下の妹を学校へ連れて行って、机のそばに立たせ
ておいたこともあった。それでも、西村先生は、何も言わないで黙認して下さったので、
あんなにうれしく感じたことはなかった。しかし友だちに対しては恥かしい思いをした。
 学芸会では、漢字を大きく墨で書いたり、枝にとまっているすずめの略画をかいたり、
教科書の文章を朗読したり、唱歌を歌ったり、理科の実験をして驚かせたり、普段勉強し
た結果を発表して父母に見てもらうのであった。                     23
 学校の学芸会が終わると、今度は字ごとに、字の生徒が中心になって、お寺や社務所の
広間を借りて、小さな学芸会を開いた。わたしの隣の字の飯倉は、生徒の数が少なかった。
わたしは、風邪を引いていたが、父に背負われて、朗読の手伝いをLに行ったのを覚えて
いる。
 五、六月になると農休みというのがあった。また、先生に連れられて、柑じゅうの苗代
を回って、苗に生みつけられているずいむしの卵をさがして探ったり、桑畑を回って尺取
り虫を採ったりした。そんな時には、字ごとに甘い麦湯をご馳走になったり、家々の庭に
咲いているきれいな花を見たりできて、楽しい行事であった。
 このなつかしい小学校も、今は少し離れた南東、古墳跡に移築され、プールまでもある
設備の整った立派な学校になっている。校長は、わたしが一年の時に教わった木暮先生の
姪であるという。
 学校の跡には、立派な老人ホームができ、あの玄関先にあった立派な築山は、敷地内の
一隅に移築されている。しかし、あの大きなポプラの木も、藤棚もなく当時を偲ばせるも
のは何一つ残っていない。ただ礼幣便街道だけが、昔のままにむなしく通っている。
                                           24
   工業学校の入学試験

 いよいよ小学校を卒業することになって、先生に連れられて、郡役所へ「郡賞」を受け
でっちはうこう
に行った。しかし、その時には、家が貧しかったので、東京のさる呉服屋へ丁稚奉公に行
くことに決まっていた。
 ところが、担任の西村先生が家へ来られて、中学校へ進学させるようにと、両親を説得
したらしく、上の学校へ進ませることになった。しかし、中学校では、卒業しても更に上
の学校へ進ませなければならない。そこで、卒業すればすぐ役に立つ工業学校がいいとい
うことになったらしい。
 当時、群馬県内には、工業学校は伊勢崎町に一校しかなかったが、その入学試験を受け
ることになった。工業学校は、予科が二年、本科が三年の五年制であった。そこで、西村
先生は、早く卒業できるから、本科一年の試験を受けたほうがいいということになった。
 本科では英語の試験があるというので、夜、一キロばかり離れた服部さんの所へ通って
教わることになった。一月から三月まで三か月、毎夜通って必死で勉強した。ところが、
いよいよ願書を出す時になって、本科は高等科を卒業しないと入学資格がないことがわか
った。それで、本科試験は沙汰やみになった。そんなのんびりした時代であった。
 当時、中学校の試験を受けたのは、村長さんの息子と、工業学校の試験を受けたのは、
わたしだけであった。幸い入学できたが、両親は、よかったというのと、これからが大変   25
だというのと、半々であったに違いない。
                                           26
       二 大正デモクラシーの中で

 わたしは、明治生まれだから、いわゆる大正デモクラシーの其っただ中で、少年になり
青年になった。しかし、小学校、工業学校の教育を通して、民主的な教育を受けた記憶は
全くない。むしろ、封建的な強制教育を受けてきた。どう考えても、文化的にも思想的に
も社会的にも、デモクラシー教育を受けたという意識は全くない。
 ただわたしが、デモクラシー運動の実際を見たのは、何歳ぐらいの時だったろうか、芝
根小学校で開かれた、水平社運動の大会だけである。織り旗を立てた幾つかの団体が集
まって、演説をしていたように記憶している。何を主張しているのかは分からなかった。

   1 自由に生きた学校生活

 群馬県立工業学校は、伊勢崎町の東部、東武線の新伊勢崎駅の近くにあった。家からは
約八キロの地点にあり、初めは徒歩で、後に自転車で通った。利根川を越えての通学で
あったが、五年間一度も遅刻をしたり、鉄席をしたりしたことはなかった。         27
 一年に入った時、五年生に同じ村から通っていた、立石秋男さんがいた。御蔭で五年生
にいじめられることはなかった。また、英語の星野先生も同じ村から通っていた。そんな
中でのわたしの自由な行動・生活があった。

   デモクラシー教育はどこへ

 当時は大正デモクラシーの其っただ中にあったのであるが、わたしたちは、そんなこと
は全く知らず、学校教育も、それとは全く無縁であった。
 小説を読む生徒は柔弱だと、先生からさげすまれた。学校の図書館には、織物や染色な
どに関する図書ばかりで、文学書は、徳富蔑花の「灰燵』がただ一冊あるだけであった。
それをみんな争って読んでいた。
 わたしは、級友、後の俳人是無光山善次郎と、後の東京工大教授久保輝一郎博士と三人
で、文集『文苑山を発行したり、短歌を作ったりして、文芸愛好心を満足させていた。
 活動写真(映画)を見ることは、厳禁されていて、ひそかに見る者は、見つかると、停
学処分を受けた。それどころではない。活動館(映画館)の近くを排掴するだけでも、見
つかると、謹慎処分を受けた。
いつも先生が見回っていたという。
 わたしは、三年生の時、原料の時間の講義がつまらないので、こっそり小説を読んでい
て、見つかってしまった。「出て行け」と先生にどなられ、窓から飛び出して、運動場の   28
クローバの上に寝ころんで、青い空を眺めていた。
 体操の時間には、「暑い、暑い」などと言うと、「夏は神武天皇以来暑いんじゃ」と叱ら
れ、行進して行って、ばらの土手に突き当たって足踏みをしていると、「何しちょる、土手
を踏み越えて行け」とどなられた。瞬間「回れ右前へ進め」と号令がかかって、ほっとし
て後戻り行進をした。
 こうして、一方では、スパルタ教育が行われていた。世は挙げてデモクラシーの声に包
まれていたのであろうが、生徒たちはもちろんその声を知らず、教育界もまた無関心で
あったのだろうと、今にして思う。

   大八車をひく少女

 家から学校まで八キロ、この道を毎朝自転車で適った。冬の寒い日であった。新伊勢崎
駅の前を通って行くと、小学校を出たばかりではないかと思われる女の子が、大きな大八
車をひいて、駅の構内へ入って行くのを見た。きりっとした、けなげな働く姿をしている
が、いかにもかわいそうに見えた。それから、毎朝同じ時刻に構内へ入って行く。どんな
仕事をしているのだろうと思うと、だんだんかわいそうに思えてきた。どんな家の子だろ
う。家では父親が病気で寝ているのだろうか。そんなことを思うと、もうわたしはたまら
なかった。                                      29
 持っていた僅かの小遣いを入れて、こういう少女がいるから、調べて助けてやって欲し
いと、手紙を書いて、伊勢崎警察署宛に、名前を書かずに出した。しかし、警察署では何
もしてくれなかった。女の子は、かわいそうに、それからも寒い朝を、大八車をひいて、
駅の構内へ通っていた。
        *
 それから何年たっただろうか。確か五年生になって四月の休みが近づいたころだったろ
うと思う。生徒監の中島先生から、先生方が、休みに星野先生の宅に集まるから、手伝い
に来いということであった。星野先生の家は、わたしの家の近くで、村の名家であった。
その日は、先生方が集まって、ご馳走を食べながらくつろぐ日であった。
 わたしは、蓄音機の世話をするように言われていた。床の間には立派な掛け軸がかけて
あった。中島先生は、その絵の見方をていねいに教えて下さった。
 宴会もたけなわを過ぎたころであった。先生方がみんな居ずまいを正されると、中島先
生が突然、「中沢、お前は新伊勢崎駅で働いている女の子を知っているか。」と聞かれた。
わたしは、突然のことで、どぎまぎして即座に返事ができなかった。叱られるのかと思っ
た。
 先生は続けて、「警察から、新伊勢崎の駅のあたりを通る生徒の手紙らしいから調べてほ
しいと、手紙を学校へ送ってきた。そこで筆跡を調べてみたら、中沢だということがわ    30
かったのだ」と一部始終を話して下さった。そして、「中沢が名前を書かないで出したのだ
から、知らせない方がいいというので、これまで知らせなかったのだ。」ということであっ
た。
 想像した通り、女の子の家では、父親は病弱で寝ているので、女の子が働いて家計を助
けているのだということであった。わたしも家が貧しくて、やっと工業学校に出しても
らっているので、あの少女を見ると、あの大八車のあと押しでもしてやりたい心境だった
のである。
 中沢も、やがて卒業だから知らせてやった方がいいだろうということで、この日になっ
たのだということであった。

   県知事が視察に来た日

 四年生の時であった。県知事が視察に来るから、午前中に授業、午後に工場実習を見て
もらうということであった。ところが、当日になったら、知事の都合で、来るのは午後に
なったから、午後一時間授業をして、そのあと工場実習を見てもらうからということに変
わった。
 すると、四年生だけが反発した。「授業は見せ物ではない」とばかり、教室へ入るものは
いなかった。すると教頭が、「校長の首があぶないから、みんな教室へ入れ。」と説得に来  31
たが、だれも入らなかった。すると、今度は押っ取り刀で体操の中島先生が来られた。
 先生は例の大きな声で、「集まれ」の号令をかけると、生徒は思わず一列に並んだ。する
と、「右へならえ。」「前へ進め。」と号令をかけられて、みんな黙って教室へ入ってしまっ
た。
 わたしは責任上授業を受けるわけにはいかないと、ただ一人運動場に残って、実習工場
に入って、受け持ちの力織機で、はたを織り始めた。すると担任の花輪先生が駈けて来て
教室へ入れと言いながら力織機の運転をとめた。わたしがまた運転する。先生が止める。
それを繰り返して教室へ戻らなかった。とうとう先生は怒って、そばにあった道具箱から
ハンマーやスバナーを取って、床にたたきつけて帰って行った。わたしは広い実習場でた
だ一人はたを織っていた。
       *
 県知事が帰ると、早速職員会議が開かれ、わたしが問題になったという。すると中島先
生が、中沢は神経衰弱だから、わたしが引受けるということで、問題は決着したのだと後
でわかった。
 そんなこととは露知らず、次の日曜日に家に遊びに来いと中島先生に言われた。日ごろ
尊敬していた先生だから喜んでうかがった。すると意外にも、星野先生も来ておられた。
 先生は、「眠れるか」とか、「御飯は食べられるか」とか、妙なことを開かれた。神経衰  32
弱だということになっていたからであろう。四方山話の末、中食を御馳走になった。帰り
ぎわに、これを読んでみろと言われて、先生は高山樗牛の『樗牛全集』を貸して下さった。
随分むずかしい本であったが、この本で、力と信念に生きた人間日蓮を知って深い感動を
覚えた。これを機に、日蓮の伝記や『立正正安国諭』などをむさぼり読んだ。
 その後、相馬御風の『大愚良寛』を読んで、純粋無邪な良寛に憧れを持つようになった。
こうして、力と信念に生きた日蓮と純粋無碍な良鑑の心を一体として身につけようと固く
心に期した。
 まるで瓢箪から駒のような話になってしまったが、結局県知事の学校視察がわたしの生
涯を大きく変えることになった。

   数学のS先生

 四年の時であった。物理学校を出たという若い数学の先生が赴任してきた。まだ経験に
乏しいために、生徒に数理を納得させる適切な説明が十分にできなかった。わたしは、そ
のころ大学入試の問題を解く練習を繰り返ししていた。だから先生に質問することが多
かった。先生は、それが苦手のようであった。
 ある日、数学の授業が終わったので、「先生質問です。先生この間題を解いてみて下さ
い。」と言うと、先生はいきなり黒板に向かって解き始めた。しかし、なかなか解けないで  33
立ち往生した。それは大学の入試に出たむずかしい問題であった。
 しばらく見ていたが、わたしは、「こうすれば解けませんか。」と言って、すらすらと
解いた。すると、興味深く見ていた生徒たちは、わあっと喚声を挙げた。先生はそうかと
言って顔を赤くされて教室を出て行かれた。
 こんなことが二、三度続いたある日、先生はわたしを当直室へ連れて行った。わたしを
畳に座らせると、先生も端座された。そして、「中沢君、君はなんでわたしをいじめるの
か。」と、涙ぐんで言われた。「別にいじめているわけではありません。」と、言うと、
「もう、いじめないでくれ。」と言って、今度は生徒監の中島先生の所へ連れて行って、
先生に渡された。
 中島先生は、心得ていると言わんばかりの態度で、わたしに言われた。「中沢、度が過ぎ
るといかんぞ。」それで放免になった。
 しかし、五年になってみると、もうS先生は見えなかった。東京へ帰ってしまったとの
ことであった。わたしは、何だか急にさびしさを感じた。やはり度が過ぎたのであった。

   実習工場の製図室

実習工場の一隅に製図室があった。本館から離れているので、先生の目が届かなかっ
た。その窓下を、自転車通学の下級生が帰って行く。その下級生をつかまえて、黄金焼を   34
買ってきてもらう。ほかほかと暖かいのを食べながら製図をするのが楽しみであった。
 ある時、0君が昼休みに、工場の薬品室から、過酸化ソーダを持ち出して、水槽に浮か
べ、水面をくるくる走り回るのを見て楽しんでいた。そのうちに午後の始めの鐘が鳴っ
た。あわててソーダを取り上げて紙に包んで、内ポケットにしまった。何食わぬ顔をして
製図をしていると、間もなく内ポケットのソーダが発火して大やけどを負った。半年入院
していてとうとう卒業できなかった。
 また、Y君は、色白になろうと、薬品室から過酸化ソーダを盗み出して、過酸化ソーダ
水を作り、こっそり顔にぬっていた。ところが、色白になる前に、眉毛が茶色になってし
まって、先生に見つかった。
 封建的な厳しい教育の宴に、こんないたずら盛りの少年たちがいた。

   図画室から汚水

 図画室は二階にあった。その下は会議室になっていた。先生方はいつも昼になると、こ
の会議室に集まって食事をしていた。図画室の掃除当番は、わたしたち四年生であった。
弁当を食べ終わると、急いでバケツに水を汲んでいって、雑巾で床を拭いた。床にはいく
つもの節穴があいていた。この節穴と、先生が食事をする会議室とが、茶目つ気の多い生
徒たちを刺激せずにはおかなかった。だれ言うとなく暗黙のうちに、いたずらが考えつか   35
れた。バケツの中には、汚い水が入っていた。それを階下まで捨てに行くのは、面倒臭か
った。一人が、無言のまま節穴を見つけては、バケツの汚水を流し込んだ。みんな急いで
反対側の廊下に立って、会議室をガラス越しに見ていた。 すると、汚水が洩れ始めたの
であろう。弁当を持って右往左往する先生方の姿が見えてきた。
 すると、わあとか何とか言って、生徒たちは、くもの子を散らすように、どこかへ行っ
てしまった。それ以来図画室の掃除には、監督の先生がつくようになった。

   わたしを育ててくれた両親

 母は明治八年生まれで、小学校を卒業してから何かの学校へ行ったらしく、狭い村のイ
ンテリで、今ならいわゆる教育ママであったらしい。当時は新年・紀元節・天長節などの
旗日には、学校で祝賀式が行われ、校長先生のお話を開き、「年の初めのためしとて、終
わりなき世のめでたさを―」とか、「今日の良き日は大君の生まれたまいしよき日なり」
とかいう式歌を歌って家へ帰って来たのであった。
 帰って来ると、いつも母から「今日、校長先生はどんな話をされたか」と聞かれた。わ
たしが、これこれの話であったと言うと、母は「こんな話をされたのだよ」と、噛んで含
めるように、丁寧に話してくれた。わたしはじっと聞いていたが、母はどうして校長先生
のお話をこんなに詳しく知っているのだろうと、不思議でならなかった。          36
 これはずっと後になって姉から聞いた話であるが、母はいつも式日には、式場の後ろの
方にこっそり入っていて、校長先生のお話を聞くと急いで家に帰って、わたしが帰るのを
待っていたのだということであった。
 考えてみると、貧乏のどん底だったのは、わたしの小学校時代だった。雨が降ると、た
らいや桶を動員して雨漏りを受けて回るのが常であった。夜になると、屋根板のはがれた
所から、星が見えたこともあった。しかし、気丈な母は、貧乏くさいのがきらいで、貧乏
暮らしのみじめさを、わたしたちに味わわせまいと、ずいぶん苦労したらしい。
 それでも、わたしは小学校を卒業すると、担任の先生の格別のお骨折りで、工業学校へ
入れてもらった。貧乏人には過ぎた教育であった。家から学校までは二里、八キロあった。
そこを歩いて通うのは、かなりの勇気と覚悟がいった。雨の日は特につらかった。むし暑
い夏の口Uは堪えられなかった。嵐の日は休みたくなるほどだった。
 何と言っても、洪水で利根川が川止めになる日はたいへんだった。母は朝早くから、走
り回って船頭を頼み、特別に舟を仕立てて、あの濁流うず巻く中を渡してもらった。あの
こわさは今でも忘れられない。
 一年生の十月の末ごろだったろうか。母は突然「自転車屋へ行ってみろ。」と言った。何
事かと思って行ってみると、「おっかさんから頼まれた。」と言って一台、中古の自転車
を漉された。四十五円だということであった。わたしはびっくりした。四十五円なんてそ   37
んな大金を、母はどうして工面したのであろう。
 そのころ、よく家に出入りする「おはるさん」という、ひどく腰の曲がったおばあさん
がいた。いつでも、大きなかごをしょって来て、何やら母とひそひそ話しては帰っていっ
た。子ども心にも、不思議な得体の知れないおばあさんであった。それがずっと後になっ
てやっとわかった。母がこっそり渡す質草を、川向こうの質屋へ届けて、お金を借りてき
てくれるおばあさんであった。あの自転車の四十五円も、きっと母の着物か何かが、姿を
変えたものだったに違いない。
 自転車は、いつも家の物置きに置いてあった。毎朝自転車を出しにいくと、ちょっと醤
油をたらした生卵がサドルの上に置いてあった。急いでそれを飲んで学校へ出かけた。そ
れが五年間も続いた。もちろん、母のわたしだけへの心遣いであった。母は姉や妹にそれ
が見つかるのを極度に恐れていたようであった。
 やがて、学期試験が始まると、きまって、大豆ににんじんとごぼうを刻み込んだ煮豆を
作ってくれた。豆を食べると根が続く、にんじんは精がつくからと、そのたびに言って聞
かされた。
 一つの電灯の下で、姉は賃機を織り、わたしは勉強した。母は姉や妹の手前、わたしだ
け工業学校へ通わせておくのがつらかったらしい。よく「政雄はあととりだから」と、弁
解がましいことをつぶやいていた。                           38
 それも上の妹は、看護婦と助産婦の免許状をとり、末の妹は、検定試験を受けて、小学
校の先生になった。母は後年「政雄、みんなのことを忘れるなよ。」とよく言った。その
母の心をを思いやると、胸が痛くなって、だまりこくることが多かった。西方浄土で、今
でも母はわたしたちを心配しているのであろうか。
      *
 十月、母の七年忌で郷里へ帰って法事をした。子・孫・ひこ孫大勢集まってにぎやかで
あった。
 ところで、確か母が七十七、八歳の時だったと思う。ある日、突然八畳へ集まれと言い
出した。何事かと家族一同私の部屋へ集まると、母は大きなふろしき包みを抱えて入って
きた。みんな目を見はった。
 母は座るとすぐに「わしも年をとったから、いつ死ぬかわからない。死んだ時のことを
話しておく―」と言いながら、一通の貯金通帳を私の前へさし出した。「お前も今はどう
やら人なみに暮らしているが、いつどんなことで、わしの葬式が出せないようになるかも
知れない。これはその時の葬式の費用だ。」母の声は、いつもと少しも変わらなかった。
私は、ぐっとこみ上げてきた感情を、のどのあたりで、しっかりとこらえた。
 それから母は、おもむろに、包みを解いた。「病気が長引くと床ずれができる。これはそ
の時の蒲団皮だ。」と言って、やわらかい白絹を取り出した。続いて、「これは死に装束だ。 39
これが経かたびら、これが手甲、これが脚杵、これが頭陀袋……」じっと見はっていた私
の目は、いつの間にかかすんで、涙の向こうに白いものがちらついて見えた。「それから、
これは、湯かんをするときの切れ―」と言いながら、十五センチ四方ぐらいに切った白布
を、三十センチばかり積み上げてしぼったのを取り出した。
 これらはみんな母の手縫い、手作りであった。いったい母はいつこんな用意をしたので
あろうか。
 今度は、茶筒を取り出してふたをあけた。そこには、五円玉、十円玉がいっぱい詰まっ
ていた。これは、郷里の風習で.、葬式の日に供養する投げ銭であった。
 死に装束の説明が終わると、母はちょっと一息入れて、こんどは死んだ時の始末を教え
ておくと言った「死ぬと、いろいろ汚物が出るから、鼻にも口にも、おしりにも脱脂綿を
よく詰めなさい。それから堅くならないうちに、両手を胸の上に組んで合掌させなさい。」
と、こまごまと、わが身の処理の仕方を教えた。
 それが終わると、母はほっとしたのか、少し疲れたようであった。それでも母は「もう
これで思い残すことはない。みんな仲よく暮らすんだよ。」と言った。
「お母さん、今からそんなことを考えなくても……」、とわたしはやっとそこまで言った
が、まことに力のないことばであった。
 思えば、この時からさらに十余年前になるが、私はやっと父の石碑を建てた。その時、   400
母は、住職に頼んで、戒名をつけてもらった。そして、父の「唯心院一乗宝絡居士」と並
べて、「清心院長誉妙寿大姉」と石碑に刻した。それから数年たつと、こんどは、このお
墓をみんなコンクリートで固めた。「政雄も忙しくて、お墓の草むしりもできないだろう
から……」と、いうことであった。
 それから十余年後、母は満八十九歳で亡くなった。美しい菊の花に包まれて、かすかな
笑みさへ浮かべていた。安らかな大往生であった。手縫いの装束で、黄泉の旅にのぼった
ことは言うまでもない。
 晩年の母のこの悟りの境地は、いつ思い出しても心を打たれる。取り分け終わりを全う
しようとする執心には、まことにただならぬものをさえ感じる。それは艱難辛苦の果てに
たどり着いた生涯稽古の賜物であろうか。……私は、こんな母に育てられたことをありが
たく思っている。
       *
 父は、わたしが十八の暮れにこの世を去った。享年六十二歳であった。まことに実直で、
黙々としてよく働いた。お世辞一つ言えなかったが、村の人たちからは、市造さん、市造
さんと慕われ親しまれていたようであった。どちらかと言えば、病気がちで、全くの貧乏
暮らしではあったが、七人の子どもにひもじい思いをさせたことはなかった。もともと、

母とは好き合った仲であったから(それは後に人から開いた)、お互いに言い争うことな   41
ど、かつて聞いたことなどなかった。
 後年、群馬県から横須賀へ移り住んでからは、母はお盆になると、決まって田浦駅まで、
ちょうちんを下げて、父の精霊を迎えに行った。帰ってきて仏壇の前へ座ると、いつも、
「こんな遠くへ来てしまって……」と、申し訳なさそうに言ってから、「電車に乗って来
るのは大変だったかね」と、父にたずねるように聞いた。それがまことに自然で、しみじ
みとした情感がこもっていた。そのたびに、父と母の心の生活を思ってみたことであった。
 その後、わたしが上京して、最初に勤めた中学校の校長は、さる新興宗教の教祖の弟で
あった。ある時、脚気になったわたしに、神様のお告げを聞いてあげたよと言って、「君
が脚気になったのは、君の両親の仲が悪かったからだ。」と、教えてくれた。それを聞い
て無性に腹が立ったことを思い出す。
 そんな父が、ある年出稼ぎに行った。確かわたしが四、五年の秋も終わりに近いころだ
ったと思う。が、どこへ行ったのがはっきりした記憶はない。ところが父はすぐ帰ってき
た。二、一二日で帰ってきたような気がしていたが、実際は一週間ぐらいだったであろう。
父がなぜ早く帰ってきてしまったのか、全く知らなかった。もちろん、よそへ働きに行っ
たことなど、母はわたしたちには教えなかったのであろう。
 そんなことがあってから、かれこれ半年もたっていただろうか。ある日、意外な話を母
が開かせてくれた。                                  42
 何でも、父は長野県へ働きに行ったのだという。たぶん丘陵地の畑の仕事だったのであ
ろう。何か重い肥料を、丘の上までかつぎ上げる仕事だったらしい。慣れない仕事だから、
疲れた足を引きずって、一所懸命かついでのぼっていった。すると、後ろの方で、主人公
が、「おうい、休まず、休まず。」と、どなり立てる。こんなに一所懸命かついでいるの
に「休まず」とは何事かと、父はひどく憤慨したらしい。が、持ち前の負けぬ気で、一気
に頂上の畑までかつぎ上げたのだそうだ。ずいぶん体にこたえたらしいが、根がまじめだ
から、歯をくいしぼってがまんしたに違いない。それでもその日は、まる一日働いて夕方
もどってきた。
 ところが、足を洗おうとすると、「さあ、さあ、洗わず、洗わず。」と言う。それでも
足を洗って、座敷へ上がると、もう夕食の仕度が整っている。いよいよ食事の時になると、
また「さあ、さあ、食わず、食わず。」と、真顔でくり返して言う。父はいよいよ腹を立
てて、「えい、一食や二食、抜いてやれ。」と思ったという。
 実直な父にしてみれば、どんなにか虐待されていると思ったに違いない。そんなことで、
これではたまらないとばかり逃げ帰ったのだそうだ。いかにも父らしい話である。それを
また母が眼前にほうふつとするように話してくれた。
ことばの調子や雰囲気で、「休まないか」とか、「さあ、食べましょう」とかいうことぐ
らい感じとれないはずはないのに、それをまじめに受け止めて、ひたむきに逃げ帰ったと   43
ころに、父の真骨頂があるように思う。それとも、長い間家をあけたことのない父は、何
とも家のことが心配で、帰らずにはいられなかったのかも知れない。恐らく、両方からみ
合って複雑な気持ちだったのであろう。
 去年の暮れ、郷里へ帰った折、利根川の土手を歩きながら、母から開いたこんな話をふ
と思い出した。とにかく、ほんとうに己を責めることの厳しい父であった。まちがったこ
との大きらいな父であった。今、父の年をはるかに越えて、しみじみとなつかしく、それ
が思い出される。
        *
 わたしは、こんな父から、「二反の白をただ取り」の話や、金仏様の「くわん、くわん
」の話や「その鈴やらん、あかんべろりん」の話など、おもしろい話をたくさん聞きなが
ら育った。父に叱られた記憶は全くない。女の中の男一人、ただそれだけのことで、猫か
わいがりにかわいがられたものと思う。
                                           44
     三 織物工場の職工になって(十九歳)

 工業学校を卒業すると、四月からすぐ前橋市の丸大織物工場の職工になった。新しいよ
ろけ織の研究をしている工場であった。女工十二人の力織機の修理と、女工の作業能率を
あげることがわたしに任された仕事であった。
 住み込みの十時間労働で、毎夜寝るのは十時過ぎ、細井和喜蔵の『女工哀史』さながら
の生活であった。好きな短歌を作るひまもなかった。外出することもままならず、緑と言
えば、トイレの前に一本生えていた柿の木の若葉だけであった。
 毎夜、仕事が終わると、その日のノルマが達成できたかどうか、女工の勤務振りはどう
か、改善すべきことはないかなどと、話し合いをするのが例であった。
 こんなふうに生活が急変したのと、過重な労働で、根が丈夫でなかったわたしは、たち
まち健康を害してしまった。医者の診断によると肋膜炎ということであった。医者のすす
めで、五月いっぱい赤城山の奥深い赤城温泉で療養した。静かに短歌を作りながら過ごし
た。「顔洗う手を休めては山深く鳴きゐる夏のうぐひす開くも」は、そのころの歌である。
 病気の回復は早く、十一月には、医者の溜介で、徳江さんを頼って、神奈川県茅ヶ崎町   45
へ転地療養することになった。徳江さんは、帝国実業貯蓄銀行茅ヶ崎支店長であった。
二、三日お世話になっている間に、貸し別荘を見つけて自炊することにした。海岸に近い
松林の中で、短歌を作ったり、英語の文検を受けるつもりだったので一所懸命英語の勉強
をしたりしながら静養した。
 翌年早く、徳江さんのすすめで、銀行の手伝いを始めたが、幾月もたたないうちに銀行
は破産してしまった。それからが大変だった。預金者に応対したり、銀行更生請願書を衆
院議長に提出したりするなど東奔西走した。しかし、結局銀行は更生できなかった。
 もう健康も回復したので、これで群馬へ帰ろうと思った。ところが、預金者の益子先生
のすすめで学校の先生になることにした。三月の終わりごろ、鶴嶺小学校の校長さんが、
会うというので、鳥打帽子をかぶって行った。校長さんに二、三聞かれた後、四月から来
て欲しいということであった。そして、これからは先生だから、中折れ帽子をかぶってく
るようにと言われた。
 よし、これから啄木の向こうをはって、日本一の代用教員になるぞと思った。しかし、
生涯を先生で終わろうなどとは、全く思っていなかった。
                                           46
      四 子どもた
        ちと共に ひたむきに生きた三十年

    1 教員事始め(茅ヶ崎町立鶴嶺小学校二一十歳)

   小学校教員になる

 撮初の鶴嶺小学校は、東海道から東へ三、四百メートル入る神社の松並木の参道の奥に
あった。この時の新任の先生は、横浜女子師範を出たばかりのT先生、中学校を卒業した
A君と、工業学校出のわたしの三人であった。
 全く新しい教育社会で働けると思うと、不思議に興奮した。そして、石川啄木の向こう
を張って、日本一の代用教員になろうなどと思った。
 担任は二年の女組で、男組は温厚で練達の脇先生であった。教室は校長室の隣にあっ
た。わたしが大きな声で教えるものだから、時折校長さんに、あれはこう教えるといいな
どと教えられた。また、腰かけで教員をやってはいけないと言われて、九月に県の教員検   47
定試験を受けた。そして、尋常小学校本科正教員の資格を取得した。

   職員会議

 職員会議に参加して驚いた。先生方は、男の先生も、女の先生も、あれこれと、勤務上
教育上の不平不満を言い合っているのに、会議では、校長から出される議題に、一も二も
なく賛成可決する。あれほど不平不満を言い合っているのに、だれも校長に向かって言い
出すものがいない。わたしはそれが不思議でならなかった。
 その日の職員会議も夕方近くなってから開かれた。例によって、校長側の一方的な会議
で終わりそうになった。じっとがまんしていたわたしは、「はい」と手を挙げて、立ち上
がり、日ごろ先生方が話している不平・不満を話し、これを何とかして欲しいと、校長に
申し入れた。とたんに先生方の大きな拍手が起こった。
すると、校長は真っ赤になって、「職員会議で拍手をするとは何事だ。」と怒った。
それっきり校長からは一言もなく会議は終わった。
 それ以来、わたしは校長や幹部教員たちからにらまれるようになった。
                                           48
   週案

 授業計画については、毎週土曜日に、週案というのを書いて校長に提出することになっ
ていた。名前は忘れたが、国で定めた一か月単位の計画案があった。どの先生もそれを週
ごとに分けて、週案に書いて提出していた。それに校長はめくら判を押していた。
 わたしは、なぜこんな形式的なむだなことをするのだろうと、若気の至りで思った。そ
こで、週案を書いて出すのを止めてしまった。すると、毎週校長に、週案を書いて出すよ
うにと、叱られながら言われた。それが一学期の間続いた。
 ある朝、朝礼に出る折、下駄箱で校長と顔を合わせた。すると、校長は厳しい目付きで
「これが最後の注意だ。週案を出し給え。」と言われた。わたしは朝礼が終わると、教室
へ行って、週案代わりに、毎日毎時間の授業記録と反省を墨で書いていた巻紙を持って来
て、校長室の大テーブルの上に広げて見せた。
 校長は立って黙ったままじっと読んでいたが、何とも言わず、椅子にかけてしまった。
それ以来、暗黙のうちに、わたしだけ週案を出さなくてもよくなった。しかし、毎日、毎
時間の授業記録と反省を書くのは大変なことであった。

   謄写刷りの鉄勤届

 形式的なことと言えば、欠勤届などの届書は、半紙に毛筆で手書きをし、印判を押して   49
出すやっかいなものに決まっていた。わたしは、故勤届の様式を謄写版で印刷しておいた。
 寒い冬の日であった。風邪を引いて、朝起きてみたら九度も熱があった。と言っても、
学校では子どもたちが待っている。休むわけにはいかない。わたしは人力車を頼んで出勤
した。やっと職員室へ入って、大火鉢の前にしゃがんで手をあぶったが、とても教室まで
行けない。仕方がなく子どもたちを先生方に託して、また人力車に乗って帰った。がその
まま肺炎になってしまった。
 やがて、回復して出勤し、例の謄写版の映勤届を出した。すると、校長は怒って、「僕
は長い間教員生活をしているが、君のような人間は初めてだ。」と、大目玉を頂戴した。
しかし、半紙に毛筆で書いて出せとは言わなかった。そのまま受理した。

   体操研究会

 校長が、県の主宰する体操の研究会を引き受けてきた。けれども進んで授業をやるとい
うものがいない。経験豊かな先生が大勢いるのにと思うと、はがゆい思いがした。とたん
に「ぼくがやります。」と言ってしまった。しかも教員になったばかりで、担任は二年の
女の子と思うと、不安が先にたった。
 当時の体操は、徒手体操から始まって、遊戯・行進で終わるというものであった。体操   50
主任が教える通りに、一所懸命に教えた。しかし、困ったことがあった。最後の行進は、
円陣を作って、その真ん中で、教師が「空も港もよく晴れて……」と、オルガンで行進曲
を弾くことであった。学校ではベビーオルガンで、一所懸命習ったが、家へ帰ってからは、
厚紙で作った鍵盤で練習した。それから団体の遊戯もなかなかうまくいかなかった。
 とにかく、体操の先生に教えられながら、同じ体操の授業を、繰り返し繰り返し練習し
て、もうこれでいいと、太鼓判を押されるまでになったそして、いよいよ明日が発表会
という日になった。
 その夜は興奮して眠れなかった。眠れないままに考えた。いろいろ苦労して練り上げた
授業であるが、子どもたちのための授業ではない。多くの先生がたに見てもらうために、
作り上げた授業である。そう気がつくと、無性に情けなくなって、がっかりした。こんな
こしらえた授業など、人に見せるべきではないと思った。そして、本当の授業をやる体操
主任の授業だけを見てもらえばよい。と覚悟が決まると、夜が明けるのを待って、今日は
鉄勤する旨を学校へ伝えた。
 すると、休まれては困るからと、小使いさんが迎えに来た。が、わたしは行かなかった。
今度は教頭が来た。「授業をやるだけでいい。終わったらすぐ帰ってもいいから……」と
校長が言っていると言う。
                                           51

 わたしは、しぶしぶ出かけて行って、こしらえた授業をした。終わると、校長室へ来い   52
と言った。わたしは叱られるのを覚悟して行った。校長は黙ったまま、テーブルの上にあ
ったバナナの山から、二本もぎ取ってくれた。わたしも黙っていただいて家へ帰った。わ
たしは、こしらえものの授業をしてしまったのを恥じた。残念でたまらなかった。しかし、
これで、学校でもまじめに生徒のための授業の研究をするようになればいいと思った。

   わたしの国語研究

 教員生活二年めに、鎌倉師範専攻科出身の新進気鋭のN訓導が赴任して来た。当時アメ
リカから導入された新しい教育法、ウィネトカシステム、ドルトンプランの二つの学習理
論があった。Nさんは、専攻科でその研究をしてきたということであった。
 そして、Nさんはそのウィネトカプランの実践研究を始められた。その刺激を受けて、
わたしも、ドルトンプランによる国語の授業研究をすることにした。もちろん、N先生が
いろいろと教えてやるからということであった。子どもは持ち上がりの三年の女組である。
 余り詳しいことは覚えていないが、子どもたちは、一週間単位で、それぞれ能力に応じ
た学習計画を立てる。一人一人教師と相談しながら、その計画に従って、それぞれ自己学
習をする。学習が終わると、教師の評価・指導を受けてから、前へ進むというものであった。
 ずいぶんむずかしい、複雑な授業であったが、一歩一歩研究を進めた。子どもたちも、   53
たどたどしい勉強であったが、みんな楽しそうであった。それがうれしかった。封建的な
教育社会から僅かでも離れた、自分だけの世界が開けたことがまたひそかに楽しかった。

   子ともたちと江之島へ

春の暖かい日だったと思う。放課後子どもたちが大勢やってきて、「先生、海へ行こう」
と誘われた。いつものことなので、「よし、行こう。」と連れだって海岸へ行った。茅ヶ
崎から辻堂にかけて長い浜辺が続いている。南の果てには、江之島が見え、沖には烏帽子
岩がかすみ、おだやかな白波が浜辺に寄せていた。みんな楽しそうであった。
 いつの間にか子どもたちは、元気に歌を歌いながら江之島に向かっていた。江之島はす
ぐそこのように見えるが、五、六キロはあるだろうか。やがて江之島に着くと、子どもた
ちは初めの元気はどこへやら、みんな砂の上へ座りこんでしまった。
 わたしは急に帰りが心配になった。この分ではとても海岸を歩いて帰ることはできそう
もない。ぐずぐずしていると日が暮れてしまう。まず、お土産のしおりを買って一枚ずつ
分けてやった。それで少し元気が出た。
 「おそくなったから電車で帰ろう。」というと、「わあっ」と歓声をあげた。茅ヶ崎へ
帰ったのは夕方近かった。いつでも子どもたちと一緒にいる時は楽しかった。        54

   封建的な教育社会

 「よし、日本一の代用教員になるぞ」と、意気込んで飛び込んだ教育社会であった。こ
れからは、自分が受けた教育とは違った、自由な生き生きとした教育ができるし、わたし
自身を生かす教育もできると、大きな夢を持って入った教育社会であった。
 ところが、一年二年とたつうちに、封建制の染み込んでいる教育社会であることが分か
ってきた。子どもたちや、わたしを、校長や先生方は、がんじがらめに縛って、校長好み
の形式に押し込めようとしていた。わたしが、校外に子どもを連れ出して、絵をかかせ、
作文を書かせるのを、校長を始め先生方は、にがにがしく思っていた。特にわたしが、ド
ルトンプランによって、国語の研究を始めたのを知ると、一層その日は厳しさを増してい
った。校長は放課後わたしの教室を調べたらしく、校長室に呼ばれた。そして、「中沢君、
小学校で英語の辞書がいるかね。」と、突然言い出した。わたしが、机の中に置き忘れた
学校へ持ってこないはうがいいよ。」と言われた。
 わたしは、日一日と封建のきづなに縛られていく自分を感じて、このままでは、自分を
確かに生きることはできない。こんな社会を早く抜け出そう。学校をやめて郷里へ帰ろう   55
と覚悟を決めた。そして、三月も終わりごろの日曜に帰郷のあいさつをと思って、横須賀
のN先生のお宅を訪ねた。
 ところが、Nさんに折角教員になったのだから続けろと、しきりに勧められて、隣の船
越小学校の校長先生の家へ連れて行かれた。わたしが、封建的な教育界の話を絃々述べて
もう郷里へ帰ろうと思うというのを、じっと開いておられた先生は、「それでは、わたし
の所へ来ていただきましょう。」と言われた。この校長先生は、神奈川県の視学を経て船
越小学校の校長になられた方だということであった。
 わたしは、早速茅ヶ崎へ帰って校長の家を訪ね、田浦町へ転任したいのでご承諾いただ
きたいとお願いした。すると、見る見るうちに校長の顔色が変わって、即座に「僕に使い
こなせない君を、使いこなせる校長はいない。だめだ!」と、ことば厳しい怒り方で断ら
れた。
 しかし、船越の校長先生は、すぐ県へ行かれて、わたしの転任辞令を書いてもらい、そ
れを持って、交渉して下さったので、ぶつぶつ言われながらも、転任を承諾されたのであ
った。
                                           56
   子ともたちとの別れ

 いよいよ子どもたちと別れる日が来た。子どもたちは、校長に連れられて、長い松並木
の参道を歩いて、東海道の入口まで来た。ここで別れるのである。校長が別れのあいさつ
をと言うので、子どもたちに向かうと、みんな「先生!」と言ってわあっと泣き出した。
わたしに泣きすがる子どももいた。立ったまま、こみ上げる涙を見せまいとしてじっとこ
らえた。この子どもたちを、どうするのだ。」と、校長は転任をひるがえさせるような強
い口調で言った。
 わたしは「さようなら」としか言えず、しばらく立っていたが、そのまま子どもたちを
あとに、東海道を歩き出した。止めどもない涙がこぼれていた。
       *
 この時の思いを詠んだ長歌が、歌集『こもれび』に、次のように載せられている。
   惜別
 天づたふ 春陽かがよひ 咲く花のつらつら 椿つらつらに 今こそ思へ いましらと
                            ふたとせ
 学び励みて さすかげの 早さ月日の 二年は 短かかれど ももろもろの
                                     さがみ
 苦きためしを 朝夕に しのびたへつつ 春くれば 相模ひばり野 手を取りて 歌

 ひ遊びし 秋来れば 色づく庭に さがす子の 坊さん遊び 日もすがら 楽しかり    57
                                                  あ
 しを 今日はしも さだめすべなみ 右ひだり 離るべかれど 子らと吾と 触れにし心
 末ながく 共にあらましを しかすがに せんすべ知らに 今はかも 相離りける
       
おみなごら
 さにづらふ 女子等は も明日よりは いかにかあらん なはとびと 坊さん
                                                    さが
 遊び うつせみの 吾に代わりて ひたむきに 遊ぶ人あれな 今よりは 離り住み
                             
あしたゆうべ
 つつはろかなる 子らのさきは ひねもごろに 吾が祈りてん 朝夕に

   反歌
 思ふことつひに言へざり別るると子等に向かひをれ涙こぼれて
 いささかも罪なき子等ぞしかすがにつらき思ひを吾がさせにける
 泣きすがる子等をしおきていや遠くいかにか吾の離り得べLや
 かくのごと別るるものか今さらにさだめと恩へあきらめかねつ
 別るると出でては来つれ泣きはらせし子等の瞳の見らく堰へめや

   教員生活断片

 この二年間のいつわりのない生活が「教員生活断片」として『身辺雑記』の中に書かれ
ている。幼い文章で、少し恥かしいが、当時の心境が具体的に書かれているので、ここに
再び記すことにする。
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 (1)叛逆者

 一日、打合せの折、僕は徒らに子供を圧迫し、拘束することの非なるを説いて、授業後
ごとに校庭に整列させることの廃止を主張した。もちろん僕の級では初めからそんなこと
はさせていなかった。
 たちまち議論沸騰。あまり馬鹿馬鹿しい問題であったが、僕は第一線に立った。そして
ついには、学校に対する叛逆者であり、破壊者であるという大変名誉な言葉を頂戴した。
 なるほど殻を破ることは破壊に違いない。前例に背くのも叛逆には相違ない。しかし、
破壊がなくて、どこに建設があろう。進歩があろう。
 摘牛でさへ殻から頭を出して進むではないか。進歩発展、それは結局殻を破ることでな
くて何であろう。
 近ごろ教育界の沈滞がさけばれるのも故なきに非ずである。小学校教員の感の悪さ押し
て知るべしである。しかも、そうした方たちが、本校の幹部であるにおいてをや。ああ。

 (2)再び整列問題について

 その翌週の打合せに、再び整列問題が出た。初めから校長が反対論者に弾圧を加え、閥
に葬り去ろうとする意図が、明らかに見えていた。そして、それが可なり組織的に進行し
ていった。僕は心中「よし、どこまでも子どもたちのために……」と思った。        59
 校長はまず、宮地先生に反対意見を聞きただした。予期した如く、校長はそれを頭から
押しっぶした。その上さんざん叱りつけた。
 その勢いで校長は僕に対した。僕は今までの少しばかりの調査と、実例を挙げ、意見を
も付して反対論を述べた。校長の目は異様に光っていたが、ついにそれに対して一言半句
も反駁し得なかった。そして、結局は賛意を表してしまったではないか。
 至誠は通じる。しかし、たとえ賛意は表したものの、実際においては、なお一層破壊者
ということが、校長を始め幹部の人たちの頭に焼きついたに違いない。何というさびしさ
だろう。
 それから、二学期が始まった朝、校長は、朝会の祈、整列廃止を子どもたちに申し渡し
た。これで、たとえ僅かでも九百の子どもたちが、不当の拘束をまぬがれたと思うと、心
中こみ上げてくるうれしさを禁じることはできなかった。

 (3)意見

 何と言っても、子どもを念頭に置いた、子どもを本当に考えの中に入れた意見ほど強い
ものはない。そうした意見なら、決して何物にも恐れることはない。堂々と意見を戦わす
べきである。ちょっと聞いて名論だと思われる意見でも、案外子どもを念頭においてない
ものだ。だからしまいには、弱い骨抜きされたような意見になってしまう。         60

 (4)個性

 子どもの個性、個性とはよく言うが、教師の個性ということは、少しも口にしない。足
駄と駒下駄をはいた教育だ。そんなものから何が望めよう。

 (5)画一打破

 画一教育打破だなんて、そんなこと言ったって駄目。まず教師の個性を尊重しろ。教師
を型にはめておいて、画一打破なんてあったものじゃない。

 (6)統一

 よく校長が統一上統一上と言う。統一可なりである。しかし、すべて同じ分子として、
機械的に投合せしめようとする校長の意見には賛成しがたい。おのおの異なった分子を集
めて、有機的に統合せしめる所に、統一の妙味があるのではないだろうか。また当然そう
でなくては合理的な教育ができようはずがない。

 (7)打合せ

 五分か十分でかたづく問題を、二時間も三時間もこね回しているのが打合せである。愚   61
問愚答の連発、まるで子どもたちの相談のよう。わたしは大体本を読んでいる。だからい
つも校長の目が光っている。「中沢君、どうかしたのか。」下を向いて本を読んでいるの
でこんなことを言われたこともある。

 (8)先生がた

 校長の良き下僕である教頭の早川先生。ご機嫌取り取り叱られている波多野先生。校長
に叱られながら、はね返ることのできない脇先生。校長の一言一句に対して、全身みな神
経である、しかも、一向に親任されない浜田先生。要領・ご体裁に終始して、しかもご親
任最も厚い中塚先生。これもまたご体裁屋の、何とかして給料を上げてもらいたい見えぼ
ぅの小山先生。その日暮らしの叱られながら冗談を言っている斎藤先生。校長に反発し得
るたった一人の新倉先生。余は記すに足らず。女の先生方は言わずもがな。暴言多謝。
       *
 こうして、二年間の教員生活は、失望のうちにまたたく間に終わった。しかし、ここで
封建的な社会のありようを初めて知った。わたしの生涯の貴重な一ページであった。
                                           62
   2 水を得た魚のように(田浦町立船越小学校・二十二歳)

   再び教育界へ

 封建的な教育界に愛想を尽かし、郷里へ帰ろうと思ったのに、思い返して船越小学校に
転任し、また教育に励もうと思ったのは、福田校長の意気に感じたからであった。福田校
長がどんな話をしたか全く覚えていないが、よし、この校長のもとで、思う存分教育をし、
自分をも生かそうと思った。
 ここでは、男の子の学級を、三、四、五、六年と持ち上がって卒業させ、さらに、一年、
二年と持ち上がった八年間の教育行であった。生涯猿も緊張し、努力し、自分を発揮した
時代であったように思う。
 熱心に教育研究をしながら、万葉集をはじめ、古事記・風土記・霊異記などの古典研究
をし、短歌や詩や創作などに励み、横須賀方言の研究、文検国語・漢文の免許状を取得す
るなど、八面六臂の研究を展開した時代であった。

   困った唱歌の時間

 過去二年間、一所懸命教育したと言っても、いわば素人の教育であった。船越小学校へ   63
来ても、一番困ったのは唱歌の時間であった。
口伝えで、‥聴初に教えたのは、「とっても大きなむぎわらほうし」という童謡であった
。子どもたちは大きな声を出して歌うが、うまく伴奏ができない。わたしの伴奏がつかえ
て止まると、同時に子どもたちも歌うのを止めてしまう。先生はオルガンをうまく弾けな
いのだと子どもたちに気づかせたくない。そこで、「先生がオルガンを弾くのを止めるの
は、みんなが、大きく口を開けて歌っているかどうかを見るためだから、みんなは歌うの
を止めてはいけない。」などと、苦しまざれに言いわけをしては、一時間中「とっても大
きなむぎわらほうし」と、声高らかに歌っていた。
 それが、一学期の間じゅう「とっても大きなむぎわらほうし」と、楽しそうな歌声がひ
びいていた。二学期になると、隣の教室の女の子担任の野呂先生が、気の毒に思ったので
あろう、体操との交換授業にして下さった。それで、ほっと一息つくことができた。

   試行錯誤を知る

船越小学校へ転任すると、学校近くの酒屋の二階に下宿した。朝晩の食事は、店の四年生
の女の子が、二階のわたしの部屋まで運んでくれた。廊下から障子をあけて、お膳を運び
入れるのに苦労するのを、わたしは黙ってじっと見ていた。

 まずお膳を廊下に置いて、障子を開ける。それからお膳を持って入ろうとするが狭くて   64
入れない。またお膳を置いて、少し障子を広く開けて入ろうとしたが、また入れない。三
度めにやっと、お膳を持って入れるくらいの広さが分かって、わたしの前に膳を置くと、
にこっと笑って部屋を出て行った。
 翌朝もまた同じことを繰り返した。一皮でお膳を持って部屋に入れるほどに障子を開け
ることが出来るようになるまでに、二、三日かかった。わたしは何も言わず、黙ってじっ
と見ていたが、試行錯誤が学習の上でも大事な方法であることを確かに悟った。
 後に裁縫室で酒宴が開かれたことがあった。若い菅原先生が「酒屋の二階に下栢してい
て酒が飲めないということがあるか。」と、無理やりに、わたしに酒を飲ませた瞬間、む
せて菅原先生の顔に酒を吹きつけて、大笑いになったこともあった。
 このころは、日常茶飯のことからたくさんの学習の原理・原則を学んだことであった。

   子どもに教えられて

 大木という男の子がいた。なかなか機知に富んだ子であったが、授業中いつもしゃべっ
ていて、授業のじゃまになっていた。国語の時間の時であった。あまりうるさいので、そ
の場に立たせておいた。これはよくやる軽い罰であった。やがて授業が終わると、大木は
つかつかと、わたしの所へやってきて、「先生!これ」と言って、小さな紙切れを差し出し
た。何かと思って見ると、「立たされてきょうの寒さ知りにけり」と書いてあった。わた   65
しは思わず「うまい!」と言って大木の手を取って引き寄せた。
 立たされた窓側のガラス障子のガラスが割れてなかったので、寒い風が吹き込んでいた
のであった。わたしはその不明を恥じるとともに、早速校長に頼んで、窓ガラスを入れて
もらった。
 この大木が、手工(工作)の時間に、左手の人差し指の指先を切り落とした。わたしは、
大木の指をしっかり押さえながら、軍医上がりの校医の所へ駈け込んだ。校医は、「切り
落とした指先を拾って来い」などと冗談を言いながら治療を始めた。
 ほっとして流れでる血を見ると、わたしは急にふらふらっと脳貧血を起こしてしまった。
「外へ出て!」という医者の声を聞いて外へ出ると、そのまま座り込んでしまった。わた
しは血を見るとすぐ脳貧血を起こすほど気が弱かったのである。

   子どもの個性的な絵を

 絵のとても上手な年配の先生がいた。その先生が受け持つクラスの子どもたちは、みん
な絵が上手であった。だれもみんな先生そっくりの絵をかく。わたしは絵がかけないから
そんな教え方は全くできない。
 子どもたちは、一人一人違う感覚を持っている。だから、子どもが感じる通りにかかせ
                                           66


るべきだと思った。
そこからわたしの図画の教室は始まった。子どもたちが喜んだのは、「わたし」の写生で
あった。先生をかくというのでみんなはりきった。わたしは、教壇を後ろにして椅子にか
けた。わたしの顔を写生するのである。わたしはまじめな顔をして、まっすぐ前を見てい
た。「先生!動いちゃだめ。」「先生!・ぼくの方へ顔を向けて」「先生、下を向かない
で」などという注文を開きながら、一所懸命かいている子どもたちを見ているのは楽しか
った。
 八つ切りの画用紙いっぱいに大きな顔をかいたものもいた。小さくこじんまりかいたも
のもいた。鋭い目を大きくかいた子もいた。四角い顔をかいたのもあった。だれ一人同
ような顔をかいたものはいなかった。わたしは写生がいい、写生がいいと思った。      67
 この時の歌が、歌集『こもれび』に次のように載っている。
  モデル吾のちょと動くさへひたむきにとがむる子らのかはゆくもあるか
  吾を写す子等の瞳のつばらかに輝きくれば吾はすましつ
  すましつると子等に言はれつすましゐる図画のモデルは楽しきろかも
 その年の展覧会には、教室いっぱいに、個性豊かな絵を飾った。そして、「この絵の見
方」を模造紙いっぱいに書いて掲示した。

   野外写生

 田浦町は、海に面して水雷学校・海軍工廠のある要塞地帯であるから、写真を撮ったり
写生したりすることは、堅く禁じられていた。しかし、学校だけは、校外を写生すること
を許されていた。しかし、教師は必ず写生許可証を携帯していなければならなかった。そ
の許可証は、海軍省から発行されるものであった。しかし、先生方は、これまでだれも野
外写生の指導はしなかったという。海軍の監視の目が厳しいからだということであった。
 子どもたちは、写生が子どもたちの目を開き、感覚を育てることを経験を通して知って
いた。高学年になると、写生の仕度をして校外に連れ出した。校庭をめぐる山々を写生さ
せたり、衝なみや商店街、国道やトンネルなど、自由に写生させた。
 写生許可証を持っているからと言って、山の上から海や港をかくことは許されなかった。  68
それでも、みずみずしい青葉・若葉の中で、紅葉の美しい自然の中で、自然のたたずまい
を写生することは、子どもたちにとっては、何とも言いがたい喜びであり楽しみであった。
こうして、新しい自然の絵で、教室を飾る喜びを子どもたちは感じていた。それがまたわ
たしはたまらなくうれしかった。

   三年生の作文

 観察したことを書く作文の時間である。子どもたちは、めいめい机のふたを持って運動
場へ出た。学校は一筋の国道を見下ろす高台にあった。運動場へ出ると子どもたちは、め
いめい書くことを見つけていた。国道を通る人たちを観察して書くもの、前の山を見て書
くもの、立ち木の姿を写生するように書くもの、立ち木の下で何やらじっと見上げていた
子どもは、「はっぱの間に空がある」と、思いがけない発見に胸おどらせていた。中には
地面をじっと見つめて、ありの行動を書いている子どももいた。
 みんな目を輝かせて、無言のまま一所懸命に書きつづっている。時間のたつのもみんな
忘れているようである。書くことが見つからないなどと言うものはいない作文の時間であ
る。
                                           69
   宿直の夜

 宿直室は、小便室の隣にあった。六畳の部屋で、押入れには寝具と、高等科の裁縫の道
具が入れてあった。わたしが宿直の晩になると、いつも五、六人の子どもたちが、枕を持
って泊まりに来た。狭い部屋で、ひざをつき合わせて談笑し、やがて疲れると、みんなぐ
っすりと寝てしまう。一つ布団に二人一緒に寝るのだから、たちまち布団をはいでしまう。
そのたびに掛けてやる。わたしは床には寝られないので、柱に寄りかかったまま眠るのが
常であった。
 蚊帳をつって寝るころになると大変であった。蚊帳の中にあぐらをかいてうたた寝をし
なければならなかった。しかし、教室ではわからなかった子どもの生活や家庭での躾など
がよくわかったし、子どもたちもお互いにわかり合ったり、みんなで一緒に寝起きする経
験をすることができた。わたしも、まるで家族と生活でもしているかのように感じていた。
 また、この宿直室ではこんなこともあった。職員室から宿直室へ引きあげて来た時であ
った。一人の青年が訪ねてきて、一晩泊めてくれと言うのである。話を聞いてみると、九
州の青年で、無銭旅行で北海道まで渡り、帰途についてここまで来た。今晩一晩教室に泊
めてもらいたいと言う。
いかにも朴訥なまじめそうな、考えのしっかりした青年であった。それではと、宿直室    70
で同宿することにした。その夜は旅行で出会った喜びや苦労話を聞きながらおそくまで語
り合った。翌朝は早く発づというので、教室へ連れていって、「旅」の歌を弾いて励まし
たり、旅の無事を祈ったりして、青年を送ってあげた。そんなこともあった。

   円覚寺近く

 郷里に一人暮らしをしていた母が、一緒に暮らすというので、船越の下宿を引き払って、
北鎌倉の円覚寺の近くに家を借りて、母と妹と三人で住むことにした。円覚寺の南大門の
すぐそばだったので、若い僧たちが、托鉢の帰りによく衣のほころびを縫ってもらいに立
ち寄った。
 日曜日になると、子どもたちがよく遊びに来た。十人ほど来ることが多かった。庭で遊
んだり、円覚寺の舎利殿を見たり、境内を走り回ったりして、わたしも一緒に楽しんだり
した。子どもたちは、遠足でもあるかのようであった。授業から開放された子どもたちは
全く自由に、自然児のように振舞っていた。だから赤裸々の子どもを見ることができた。
 母は、わたしの教え子というので、特別かわいく思っていたようであった。子どもたち
の飲み物や昼食の用意を、楽しそうにしてくれた。時には同僚の先生も来て手伝って下
さったこともあった。
 わたしは、ここに住んでいる間に、円覚寺や特に舎利殿などについていろいろ研究した。  71
鎌倉時代の寺院建築、三手先の詰め組、花頚窓、礎石、三度の火災を免れた舎利殿の位置
など、詳細に知ることができた。

   こんな授業

わたしは慢性の脚気があった。五月ごろから足がむくみ出す。ひどくなると、膝下を指で
押すと、親指がぐっと喰い込むほどになって、立っているのがつらくなる。そんな時には、
教壇の上に椅子を並べ、その上に横になって授業をした。子どもがわたしの代わりに板書
してくれた。
 母親たちは、これを飲むといい、あれを飲むといいと言って、一升瓶に薬水を作って持
ってきてくれた。それを飲むと不思議にむくみがとれる。本当にありがたく思った。
 子どもたちは、子どもたちで心配してくれて、静かに一所懸命勉強した。わたしに世話
をやかせまいと気遣う気持ちが痛いほどよく感じられた。母親たちは下宿住まいのわ
たしを気づかって下さったのであろう。子どもと母親とわたしと三者力を合わせて作り上
げた授業であった。今では全く考えられない授業風景であった。
                                           72
   楽しい理科の授業

 理科の研究会、講師は隣の女学校の理科の先生であった。教材は「とんぼ」なので、子
どもたちは、おにゃんまやしおからとんぼなどをつかまえて、ノートしたり、図にかいた
り自由に観察・研究していた。
 とんぼはどんな仕組みになってい・るか、どんな飛び方をするか、何を食べているか、
どのようにして卵を産むかなど、わたしの質問に対して、子どもたちは積極的に、具体的
に詳しく答えていく楽しい授業が行われた。
 従来の教える授業から、自分たちで調べたり考えたり学んだりする授業への転換を試み
た授業であった。わたしも、子どもたちもいささか得意になっていた。
 授業が終わると、研究協議が始まった。先生方はお世辞を言ってなかなか本当のことを
言ってくれない。撮後に講師の先生のお話があった。「今日の授業の組み立ても進め方も
よかった。子どもたちの勉強の仕方もよかった。しかし、先生は生徒にうそを教えた。」
と言われた。わたしは、はっと思った。どんなうそを教えたのか全くわからなかった。
 先生は、にこっと笑って続けられた。「先生は、とんぼに向かって、指をくるくる回す
と、とんぼは日を回すと教えたが、回すのは目ではない。頭である。」と結んだ。わたし
は、はっと思って、顔が赤くなっていくのを感じた。同時に、観察のむずかしさ、やはり、
観念で教えることの危うさを、しみじみ感じてしゅんとした。               73

   修身教育の研究

 校長が、県の修身の委託研究を引き受けてきた。そして、わたしに中心になって研究し
て欲しいと言われた。わたしは船越小学校へ転任してからまだ三年しかたっていなかった
が、当時松本浩紀先生主宰の『社会的修身教育」によって研究をしていた。
 そこで、わたしは、修身教材による徳目中心の修身教育を否定する立場に立って研究を
しているのですが、それでいいのでしょうか。」と伺うと、思いっきりやって欲しいとい
うことであった。一年間の研究である。わたしは早速五月から授業を始めた。すると、校
長は、「急がないで、まず研究の方針を固めなさい。」と言われた。
 そこで、修身教育に造詣の深い先生や学者を訪ねて教えを乞うことにした。その第一は
『社会的修身教育」誌で、一方の論陣を張っている茨城県烏山小学校長の高瀬越先生と、
 『生命の教育」を読んで感動した筆者の茨城師範主事、今宮千勝先生に教えを乞うこと
にした。
 手紙でご都合を伺った上で、高瀬先生を訪ねた。夕方旅館に着くと、もう先生は数人の
先生を連れて、旅館にお出になっておられた。そして、何を勘違いされたのか、「ご高説
拝聴に参りました。」と言われた。わたしはびっくりして、「わたしが、先生のお話を伺
いに参ったのですから」と言うと、「まあ、まあ」ということで座談が始まった。わたし   74
は、当時二宮尊徳の哲学や仕法に興味を持っていたので、この烏山領主が、尊徳の仕法に
よって更生したことなどを話したように思う。
 翌朝早く迎えに来られた先生に連れられて、校長室へ案内された。すると、高瀬校長は
待っていましたとばかり色紙を出して揮毫をと言われた。またまた驚いた。揮毫など頼ま
れたこともないし、揮毫したこともないので、わたしは固辞したが、学校を訪ねて来た方
にはみんな書いてもらっていると言われる。わたしは、それこそ恥をしのんで、「思い邪
なし」と、金釘流の下手な文字を書いて恐縮した。
 やがて、朝礼になると、更に無理を言われた。無理難題を持ちかけられた思いであった。
何を話していいかも、まだはっきりしないうちに壇上に立ってしまった。結局海軍の要塞
地帯の中の学校の話をした。校長室に戻ると、「海岸ででも発声の練習をしましたか。」
と聞かれた。妙なことを聞かれると思ったが、わたしの声が大きいのに驚いたからだと言う。
 高瀬校長は、一時閉めの教室を案内して修身の授業を見せて下さった。ある教室へ来る
と、「ちょっと子どもを貸して」と言って、先生独自の授業をして見せて下さった。【社
会的修身教育し誌で論じている烏山小学校の修身教育の実際を知って、午後水戸へ向かった。
 夕方近く附属小学校へ行って来意を告げると、今宮先生は職員会議中だから、しばらく
待っていて欲しいとの伝言であった。しばらくして会議が終わると、わたしの家へ行こう   75
と言ってお宅へ案内して下さった。それからおそくまで、教育のあり方について、こまご
まとお話して下さった。感銘深い話で身にしみた。また、短歌についても言及され、斎藤
茂吉は歌人であるが哲学者でもあると、先生の歌論を聞かせていただいた。
 こうした教育修行とも言うような研究をさせていただいた一方で、長田新の教育学』に
啓発され、広島高師の及川教授の「約説原理」の学習理論に共鳴したりしていた。
 こうして得た知見に裏打ちされた、社会的修身教育の実践を進めた。ありきたりの徳目
によらず、子どもたちの家庭や学校や社会における道徳経験を取り上げ、それを中心に、
反省・話し合い・実践を深める修身教育を、職員協力して実践を繰り返した。
 そして翌年三月に研究発表会を開催した。講師は松本浩記先生であった。先生からいろ
いろご指導をいただいたが、多くの参会者にさまざまな感動を与えた研究会であった。
 これを契機に、わたしは這会的修身教至誌に毎号「社会的修身教育の実践」を連載し、
太平洋戦争が始まって、すべての教育誌が休刊するまで続けた。
 なお、この研究が終わると、校長から「一週間休暇をやるから、自由に研究に使いなさ
い」と言われて、万葉集の研究を中心に、明日香・奈良・笠置・大津・彦根を訪ね、最後
に琵琶湖畔の島小学校の作業教育を見に行った。中心になって研究した栗下先生が昨年転
任されたので、今はただその跡を偲ぶだけだということであった。
                                           76
   横須賀市の修身教育研究会

 それから何年か後だったと思う。横須賀市主催の修身教育研究会が豊島小学校で行われ
た。案内を受けて、田浦町からわたしを含めて四人が出席した。授業が終わって協議会が
行われた。協議が終わりのころであった。市の教育課長が立って、「田浦町の先生は、だ
れも発言しないが、折角参加したのだから、あいさつぐらいしたらどうか。」と言った。
 そこで、四人で相談して、三つのことについて、感想を述べることにした。が、結局わ
たしが代表して話すことになってしまった。わたしは、「課長さんが何か言えということ
ですから、出席した四人で話し合ったこと、三点について話します。」と言って、形通り
の感想を話した。
 それから、「これは田浦町から出席したものの感想ですから、これからわたしの感想を
言います。」と前置きしてから、大きな声で言った。「学校を挙げて修身教育の研究をし
ていると言うのに、あの子どもたちの便所のきたないのに驚きました。自分たちの身の回
りをきれいに保つことができないようでは、心の清い子どもは育ちません。教科書教材を
教えることが修身教育ではありません。具体的な子どもの道徳生活を社会的に向上させる
ところに、修身教育があるのではないでしょうか。」と言って座った。と、急に会場がざ
わめいたようであった。
 それから四、五日たったある日、福田校長が笑いながら、「修身の研究協議会の中沢さ   77
んの話で、あちらこちら謝って来ましたよ。」と言われた。思いがけない話で、「すみま
せんでした。」とわびた。今の教育界では、とんでもない暴言だったのであろう。しかし、
言うべきことは言わなければならないとも思った。

   算術教育の研究

 これも県の委託研究で、算術の研究をした。それは、算術教科書の計算問題をやって、
計算力をつけてから応用問題を解いて、算術の思考力を伸ばすという勉強の仕方を止揚し
て、子どもたちの数生活の向上を図るというものであった。それは、子どもたちの実験・
実測に基づいて、自分で作成した問題を自分で解く自作問題法による学習法を研究し、更   78
に生活に必要な計算力としての暗算力を高め、日常の数生活の向上を図ろうとするもので
あった。
例えば、「二足で一メートルの歩はばで歩いて百二十歩の廊下の長さは何メートルか」「た
てよこ三十センチのボール紙から、たてよこ四センチの正方形は何枚取れるか」「百五十
メートルの運動場の垣根に、三メートルおきに木を植えたら何本植えられるか」というよ
うに、子どもたちが、実験・実測に基づいて作った問題を自分たちで解くという学習法の
開発であった。暗算は、概算法を考えさせて、日常の数生活に役立てるようにした。例え
ば「五十銭で九銭のノートを二冊買った。おつりはいくらくるか」は、(50−20+2)、
「九十五銭と八十八銭でいくらか」は、(100+90−7)というような方法であった。
これは少しの練習のでたちまち上手になった。
 こうした研究を全員で行い何回も実験授業を重ねた。勤務時間を超越した努力であった。
中間に六浦小学校の算術の研究発表会を見に行った。いい研究であったが、最後に県視学
が、教科書以外の教育をしてはいけないと、語気鋭く叱ったので、心配であったが、自信
をもって研究を進めた。
 研究発表会は盛会好評で、特に暗算はみんな上手なので、先生が答を教えているのでは
ないかなどと言った先生もいた。研究協議会の巌後に、県視学の講評があった。その最後
に「本校では、先生方が、協力し寝食を忘れて研究に精進した結果、このりつばな成果を   79
生みました。」と結んだ。
 最後のあいさつに立った校長は、県視学、参会者に謝意を述べた後、「県視学殿は、先
生方が一致協力寝食を忘れて精進したことをお認めになりました。どうぞこの先生方の俸
給を上げていただきたい。お願いいたします。」と、熱意をこめて懇願された。思いがけ
ない言葉に先生方は、ぐっと胸を締めつけられた。

   一人一研究

 職員会議の際、普段の職員の研究をどうするかが問題になった。わたしは、簡単なテー
マを決め、先生全体で研究するのがいいと主張した。しかし、先生方の多くは、特に年配
の先生方は、研究するのがいやだから、各自自由に研究する方がいいと主張された。あれ
これ話し合ったが、結局各自自由に研究する方がいいということになった。
 そこで、「一人一研究」ということで、それぞれ自由にテーマを決めて研究し、その結
果は、三月に発表会を開いて発表するということに決まった。
 ところが、三月になっていよいよ発表会を開くことになったが、一人一研究を主張され
た先生方は、だれ一人として研究された方はいなかった。結局共同研究を主張したわたし
一人が発表することになってしまった。何でも自由に研究してよいということだったので、
わたしは、「上代人の思想と信仰」について研究しまとめたことの一部を発表した。県の   80
委託研究では、あれほど熱心に研究したのに、自由な研究ということになると、だ汲黷
積極的に研究するものがいない。これが教育界一般の風潮であった。
 わたしは、これを後に更に深く広くまとめ、改め直して、‡代人の思想と信仰しの一書
とした。

   自由教育思潮を追って

 昭和初頭は、いろいろな教育思潮が教育界を覆っていた。ジューイの経験主義の教育理
論が導入されたのもこの時代であった。また、自由教育思潮が浸透し始めたのも、この時
代である。
 わたしはもっぱら国語教育の研究をしていたが、福田校長から、自由教育の研究をして
いる学校を回って調べてみたらと言われた。最初に教えを受けに訪ねたのは、当時自由教
育の研究をしていると言われていた、東京女子師範学校附属小学校の先生(名は覚えてい
ない)であった。しかし、要領を得なかった。
 次に訪ねたのは、千葉市の千葉師範附属小学校であった。子どもたちが書いた作品であ
ろう、運動場の一隅にちらぼっていた。ここの自由教育は、放任教育のようであった。そ
の後、市川市の市川小学校研究発表会を参観した。熱心な研究を続けたように思われたが、
その内容はどんなものだったか記憶にない。今考えれば、飛田多喜夫さんがおられた時だ   81
ろうと思う。東京の泰東小学校を訪ねたが、特別に国語教育の研究はしていなかった。
 こうして訪ね回った自由教育の調査も空しく終わった。ただこの一年間、今でも思い出
すと胸が高なるような研究会に出会った。
 それは、学校は覚えていないが、垣内松三先生が講師として指導された授業を参観でき
たことであった。先生は、子どもたちが音読するのを、ストップウォッチで計りながら見
ておられる、その真剣な姿に心を打たれた。先生のお話は、音読と黙読の速度についてで
あった。その内容は覚えていないが、一句一句ことばを絞り出すような話し方は、ずしん
ずしんと心にひびくようであった。
 そのころ船越小学校の五、六年の子どもたちは、読解の力を身につけ、自由読書が盛ん
で、少年少女小説、山中峯太郎の「敵中横断三百里』や吉屋信子の『爽竹桃の花咲く頃」
は引っ張りだこ、『のらくろ』漫画は、子どもたちも、わたしもむさぼり読んでいた。だ
から、図書室の貸し出し係はいつも忙しかった。

   文検国語・漢文

 わたしは十六、七歳のころから万葉集の研究を始め、それ以来休むことなく続けていた。
船越小学校へ転任してからも、毎年開かれた囲撃院大学の「万葉集夏季講座」に出席して   82
勉強していた。講師は武田祐書、折口信夫両教授であった。その折の講習料は、私的な研
究だからと固辞したのに、福田校長は、教育にプラスになることだからと、公費から出し
て下さった。
 もちろん万葉集だけではない。古事記・日本書紀・風土記・霊異記などの古典について
の研究も怠らなかった。前に「上代人の思想と信仰』をまとめた折に、同僚の尾崎先生に
国語の文部省検定を受けたらと勧められた。文検は難しいからと躊躇したが、これまでの
研究の状況を考えて受験してみることにした。
 ちょうどその折、四月三日に皇居前の広場で、天皇陛下のご親閲が行われた。校長も教
頭も出られないから、代わりに出るように福田校長から言われた。雨がしとしとと降る日
であった。
 ご親閲が終わるとその足で、神田へ行って受検参考書を買った。特に漢文は全く習って
いないので、中学校の漢文教科書と、大学・中庸・論語・孟子の四書を買い求めて帰った。
 予備試験は九月、半年後である。毎日八時間勉強の計画を立てて、猛勉強をした。漢文
        キ   フ
は、「花咲鳥歌」から始め、大学・中庸・論語二孟子と、国語の予備試験に必要な程度の
漢文の力を付けなければならなかったので随分苦労をした。古典は普段興味を持って読ん
でいたので、比較的楽であった。そんな状況で幸い予備試験はパスした。
 本試験は十月である。僅かな期間に、古典を集中的に勉強した。その効があって幸い本   83
試験もパスした。その時であった。授業中に、校長さんが呼んでいると、小使いさんが知
らせに来た。何事かと思って校長室へ行くと、「中沢さん、今朝の新聞見ましたか」と開
かれた。「見てきません」と答えると、「文検、合格していますよ。すぐお母さんに知ら
せて来なさい。」と教えて下さった。「お母さんに知らせて来なさい」という言葉を、あ
りがたく感じたが、「授業中ですから」と断ると、それを無視するかのように、「いいで
すよ、行って来なさい」と言われた。わたしは昼休みまで待って、母に知らせて来た。
 やがて十二月に入ると、文部省から「高等女学校・中学校・師範学校教員免許・国語」
というのが届いた。難しいと言われていた文検国語に一度の受検で合格したのだから、こ
んなうれしいことはなかった。しかし、この合格を契機に小学校教育に別れを告げるよう
になるとは夢にも思わなかった。
        *
 休むこともなく、今度は漢文の文検を受けることにして勉強を始めた。国語の予備試験
の折、漢文も含めてパスしているので、漢文の予備試験はなかった。本試験は毎年十月に
行われた。
 漢文は、無からの出発であったから、家に帰ると瞬時も惜しんで勉強した。すべて独学
のであるから容易に進まない。漢文はすべて初めて目にするものばかりである。唐宋八家
文・韓非子・左史伝・史記・十八史略・上海本の大学・中庸・論語・孟子、それから唐詩   84
選・支那思想史・漢文法など、たくさんの漢籍について勉強しなければならなかった。
 そんなわけで、一度めの受検は失敗、二度めも失敗、三度めの正直で、やっと三度めで
合格した。
最後の漢作文の題は「人格」であった。「人格は人間の放射能のようなものであるとし、
中江藤樹を例として」書いたことを思い出す。
 とにかく国語と漢文がパスしたので一応ほっとした。しかし、わたしの向学心・探究心
はそこに止どまらなかった。続いて今度は高文の試験を受ける勉強を始めた。が、二、三
年勉強してやめてしまった。あきらめずに敢行すべきだったと今にして思う。

   子どもたちと

わたしの回りにはいつも子どもたちがいた。子どもたちの言うままに行動を共にした。そ
こに楽しみがあり、喜びがあった。

   用按針塚へ

 男女別で一学級七十人もの多人数であったから、学校が終わると、二十人ばかりの子ど
もたちが、「先生、山へ行こう。」とやって来る。だから暇のあるたびに山へ遊びに行っ
た。
           ・・
 学校の前のやとから山へ入って行く。いつもわたしが隊長で、子どもたちは兵たいであ
る。みんな篠を切って鉄砲代わりに持たせ、わたしは少し太い篠をサーベル代わりにした。
目 的地は、横須賀の按針塚である。按針塚というのは、横須賀開港の恩人三浦按針の記   85
念碑の建ててある山の上の公園めいた所になっている。船越から尾根伝いに三キロほどの
所にある。
 子どもたちは元気そのものである。兵隊ごっこをしながら按針塚へ着くと、そこから軍
港を眺め、少し休んでから、また兵隊ごっこをしながら帰ってくる。ただそれだけのこと
であるが、わたしも子どもたちも、何のはばかることもなく、それぞれ自然体で向き合っ
て行動する。むき出しの生活が展開される。何よりも師弟磨き合いの機会である。(三、
四年)
 (2)鷹取山から神武寺へ
 日曜になると、わたしは大勢の子どもたちと、弁当を持って、春の鷹取山の新緑の中を
歩き回ったり、秋になると、きれいな錦のような紅葉の中を跋渉したりした。そうした中
で、子どもたちは、みんな自然児になって、伸び伸びと、生き生きと自然の中で振舞って
いた。教室から解放された子どもたちは、全く別人のような面を、わたしの前に飾ること
なく見せてくれた。それがわたしは何よりうれしかった。
 鷹取山というのは、「鷹取山に陽の輝きて港に船の旗ひるがえる」と、校歌の冒頭に歌
われている山である。学校の前から山に入って、北へ向かい尾根伝いに行くと、鷹取山を
越えて、逗子の神武寺にたどり着く。                          86
 この山越えの道は、按針塚への山路と違って、遠いだけでなくけわしい所もある。子ど
もたちは、校歌を歌ったり、山彦を楽しんだり、見渡す限り紅葉に覆われた景観の美しさ
に歓声を挙げたりして、思う存分自然生活を楽しんだ。
                                    ・・・・
 神武寺に着くと、なんじゃもんじゃの木を見たり、寺の入口の崖に咲いているいわたば

この花を見たりした。
 こうして、子どもたちは、思う存分自然の中に浸りながら、学校の中ではなかなかでき
ない集団行動を楽しみながら経験した。もちろん、わたしもこうした折には、教師である
前に、平凡ながら人間として、まるで友だちのような気分で、自然生活を楽しんでいた。
 (3)三浦半島一周徒歩旅行
 六年の卒業旅行は、箱根一周一泊の楽しいものであったが、それよりも、本当に子ども
たちとともに苦労したが、感動的で忘れがたいのは、夏休みに行った三浦半島一周一泊の
徒歩旅行であった。どんな行程をたどったのか、当時子どもたちに配布した行程表が残っ
ているので、それによってたどってみる。
   ●田三浦半島一周徒歩旅行尋六男
 一 日時 八月三日、四日の二日間
 一 集合 午前六時四十分までに校庭へ集合
 一 出発 午前六時五十分出発                            87
 一 コース
  l 第一日 o七時、湘南田浦駅発浦賀へ
        o浦賀→久里浜――この間約四キロ徒歩、浦賀発七時半久里浜着八時
         四十分、ここにて三十分間休憩。
        o久里浜→野比――この間約二キロ徒歩、久里浜発九時十分、野比着
         十時、ここにて三十分間休憩。
        o野比→三崎――この間約十四キロ徒歩、野比発十時半、途中にて中
         食、三崎着四時半。
        o三崎→城ケ島――この間渡船、三崎小学校分校へ一泊。
  2 第二日
        o城ケ島→油壷→帝大臨海実験所――この間約四キロ徒歩、城ケ島発七
         時、油壷着八時半、ここにて十時半まで見学。
        o油壷→御幸浜――この間約八キロ、途中にて中食、御幸浜着二時半。
        o御幸浜→法塔――この間約八キロ、法塔着六時。
        o法塔→学校――この間自動車、学校にて解散。
 一 案 内
o浦賀町
 電車を下りるともう浦賀町である、この町にはどこか昔風のところがある。親しみなつ   88
かしみのある町だ。三方山をせにし、浦賀湾をしっかりとだいて出来た町だ。この町が、
頼朝のころから、金沢・榎戸と共に、港として知られていたことは、すでに君たちの知っ
ている通りである。本当にこの町は港として発展してきたのだ。それからあの家光に始ま
った鎖国二百年の夢もここからさまされたのだと思うと痛快にたえない。
 初めて米国の船が浦賀へ来たのは、孝明天皇の弘化三年(今より八十七年前)で、その
時戦艦二隻をひきいて来たピッドル提督は、我が国に開国通商を求めたが、幕府はこれを
許さないで追いかえしてしまった。しかし、とうとう黒船は来た。はるばる米国から、わ
が鎖国の夢をさまLに、再びやって来たのだ。
 それは嘉永六年六月三日のことであった。夜明け方、浦賀の沖には朝霧が深くとじこめ
て村の人々は、まだ静かに眠っていたこの時何の音であろう。聞いたこともない恐ろしい
響きが山々にとどろいた。人々は驚いて海岸へ出ると、次第に晴れゆく朝霧の中に、大き
な四隻の黒船が、真異な煙をはきながら進んで来る。恐ろしい物音は大砲の音であった。
「黒船が来た、黒船が来た。」と、人々はただ海岸で騒いでいた。やがて奉行が来て小舟
に乗り近づいて見ると、それは米国の軍艦だ。奉行は「何のために来たか。」ときくと、
「米国の使いとして来た。日本の将軍にあって、国書をささげたい。」と言って相手にし
ない。奉行は早速幕府へこのことをつげた。
 幕府は驚いたが、江戸の町では、更に驚いた。六月四日には幕府の役人阿部正弘が来て、  89
アメリカの水帥総督ベルリにあって、「外交のことなら、長崎へ回ってくれ」と頼んだが、
どうしても長崎へ行かない。しまいには、「兵隊を上陸させて江戸まで、無理にでも行く」
と言って動かない。正弘は致し方なく、三日ほど待ってくれと言って、江戸へ帰った。
 江戸では大きわぎ。「黒船が大きな大砲をのせて来た。あれでうたれたら江戸はたちま
ち焼けてしまうに違いない。」よるとさわると、黒船の話で、気の早い者は、逃げ仕度を
するものきへあった。
 幕府では「万一黒船が江戸へ来た時には、早鐘で知らせる。その時は、火事装束で登城
せよ。」という命令を出し、御殿では、各大名を集めて大評定を開いた。
けれども、今はもうそんな騒ぎはすっかり忘れてしまったかのように静まりかえっている、
おもしろい町だ。れから徳川幕府は、ここに役所を置いて、江戸に出入する船の検査や監
督をした。
 そんなことを思いながら、この町を見ると、やはりなつかしくてたまらない。しかし、
浦賀は今疲れている。
o久里浜
 浦賀から約四キロ、なだらかな山坂を越えると、すぐ久里浜だ。白根崎と千駄崎の間に、
弓なりに曲がって、長い砂浜が、美しく続いている。海も静かだ。沖の方を眺めると、向
かいの房総半島も、手に取るように見え、                        90
  海越えて鋸山はかすめどもここの白浜波立ちやまず牧水
房総第一の鋸山もかすんで見える。ここ海辺の中ほどに、ベルリ上陸記念碑という大きな
記念碑がある。この碑は明埠二十四年に建てられたもので、碑文は伊藤博文公が書いた。
 浦賀へやって来たベルリは、開国通商に対する幕府の考えが定まらなかったために六日
間も海上に待たされていたが、六月九日いよいよ幕府の考えも定まったので、役人を遺し
て、会見させることにした。その会見の場所が、この久里浜だったのだ。
 海岸には、早速急ごしらえの小屋が出来た。海には赤い旗、白い幕、色とりどりに飾っ
た小舟が二百隻余り浮かんでおり、浜辺には刀をさし、あるいは槍をついた約五千余りの
武士が、もしも無礼のことでもあれば、皆殺しにしてくれようというような勢いで陣取っ
ている。幕府の役人は、浦賀奉行の井戸弘道と、戸田民薬の二人である。一方ベルリは、
その間きちんと隊伍を組んだ三百の兵士を引きつれ、軍楽隊を先頭にして、ゆうゆうと上
陸した。
 ああ、かみしもにちょんまげ姿の幕府の役人と、洋服を着た赤い毛、青い目のベルリと
の会見。そのありさまはどんなであったろう。もちろん、それは真剣だ。笑いごとではな
かったのだ。息づまるようなこの会見も、僅か一時間で終った。こうして国書を奉呈した
ベルリは、明年を約して帰って行った。
 ベルリの久里浜上陸、この碑の前に立って、当時を偲ぼう。               91
o内川
 大桶山に源を発し、久里浜で海に注いでいる。三浦郡屈指の川である。流域には小平野
が開け、農業が行われている。法塔で市内自動車を降り、この川伝いに久里浜へ歩くのも
のんびりしていておもしろい。私の好きな所の一つだ。
o野比
 久里浜から約二キロ、ここは少し道が悪いそうだ。坂道なのだ。しかし、苦しんだ後に
野比にたどり着いた時の気持ちは、また格別だろう。野比は大変景色のよい所だそうだ。
海水浴場もある。
o野比から三崎へ
 野比から三崎まで約十二キロ、これからが大変だ。しっかり歩かなければならない。ど
こか良い所を見つけて、にぎりめLを食べよう。きっとおいしいぞ。野比――長岡――長
沢――津久井――上富田――蛭田と、ずっと海岸にそって歩くのだ。
 やがて、三崎の台地に出る。この辺一帯は、海抜一〇〇メートルから一五〇メートルぐ
らいで、海蝕台地である。波に洗われたあとが、段々をなしてよく分かるそうだ。ここは
私の好きな所だ。とても素敵だぞ。ゆっくり話しながら歩こう。三浦大根の産地もこの辺
だ。
o三崎町
 台地を少し下ると三崎町だ。三崎町は古くから、商港として知られ、建久五年八月、頼   92
朝はここに山荘を設け、それからは、歴代の将軍が、ここに遊んで風景の美を賞したとい
うことである。また、戦国時代には、北條氏と安房の里見氏と、この海上で戦い、海戦史
上に名を知られるようになった。後更に徳川時代になっては、東京湾の入口になっている
関係から、外国船の渡来に驚いて、ここに海岸防備の施設を盛んに備えた。こうして一時
は商港として栄えたが、維新後段々衰え、今日ではむしろ近代的漁港として、別の方面に
発展している。近海でとれた魚類は、東京・横浜方面へ売り出される。
o城ケ島
 城ケ島は、僕たちが一夜の夢を結ぶ所だ。詩の国だ。喜んで迎えてくれよう。僕たちも
元気で島へ渡ろう。へこたれてはいけない。五里の道を歩き通してたどりつく所だ。波の
昔を聞きながら一夜を語ろう。
 城ケ島はもと三崎町と地続きであったのが、三崎と城ケ島の間が、落ちこんだために出
来た島だ。地層が大変傾斜している。海水の浸蝕したあとなどよくわかる。ここには灯台
がある。出来れば見せていただこう。三崎小学校の分教場がある。そこにとめていただく
のだ。
o油壷・帝大臨海実験所
 三崎町から約四キロ、景色の大変よい所だそうだ。近くに帝大の臨海実験所がある。相   93
模近海の海藻・魚介を採集して研究する所である。標本室には、珍しいものが沢山あるそ
うだから見せていただこう。この付近には歴史上の遺跡が多い。
o御幸ケ浜
 小田和の奥、松並木を背負い、右に佐島岬、天神ケ島を眺め、左には遠く長井町が見え
る。大島は南に、富士山は正面に、たいへん景色の良い所である。大正天皇葉山御用邸に
お出の祈、ここに行幸遊ばされたので、御幸ケ浜の名がある。
 このほか地理・歴史上研究すべき所がたくさんあるが、その折々にお話しよう。
 一 三浦半島に関する歌
  海越えて鋸山はかすめどもこの白浜は波立ちやまず     若山牧水
  夏浅き岬のはなに立つ狼のなつかしいかなわが舟をゆる    〃
  棟の木の黄なる重り花咲きみだれ三浦岬の山明るかり    高塩背山
  わが行く手三浦岬のはて遠く黒ぐろと今や募れ行く大島    〃
  更けゆきて夜潮の普もしずまれり三崎通ひの汽船の笛なる  金子薫園。
 o城ケ島の雨
  雨が降る降る城ケ島の磯に
  利休ねずみの雨が降る   雨は真珠か夜明けの霧か                  94
 それともわたしの忍び泣き
  舟は行く行く通り矢のはなを
  ぬれて帆あげた主の船
  え々船はろでやるろは唄でやる
  唄は船頭さんの心意気
  雨は降る降る日はうす曇る
  船は行く行く帆はかすむ
         昭和七年八月一日 稿 中沢
 こんな綿密な計画を立てた。これまで子どもたちと、あちらこちら歩き回ったが、こん
な長い距離を歩いたことはなかった。だから子どもたちにも、わたしにも大きな期待と言
い知れぬ不安とがあった。
 浦賀・久里浜を訪ね歩いたころは、物珍しさに目を見張ったり、景観の美しさに歓声を
挙げたりして元気いっぱいであった。ところが、三崎町に向かって海岸伝いに歩いて行く
と、初めのうちは歌を歌い、談笑しながら元気よく歩いていたが、やがてだんだん元気が
なくなり疲れが出てきた。わたしは少し不安を感じたが、同行した下山先生の元気につら
れて、子どもたちは、元気を出したり励まし合ったりして歩いた。             95
 三崎町に着いたころは、もう陽も西に傾いていた。しかし、城ケ島を目前にすると、み
んな少し元気づいたように見えた。渡し舟で島へ渡り、三崎小学校の分教場に着いた。も
うみんな疲れていたので、見学の予定であった城ケ島灯台は、遠くから眺めることにした。
分教場に着いたころは、みんなくたくたに疲れていた。教室の机を片寄せて雑魚寝をした
が、みんなぐっすり寝た。
 翌日は、早く起きて油壷へ行き、帝大臨海実験所を訪ねた。入り口に、大きな海がめが
飼われていて、子どもたちを驚かせた。水族館を見たり、あたりの景観の美しさに目を見
張ったりした。
 そこから、御幸ケ浜へ行ってからは、三崎台地をひたすら歩いて、大桶山のふもとにた
どり着き、衣笠からバスで学校へ帰った。もう夕方であった。迎えに来ていた母親たちに
簡単にあいさつをして解散した。
 子どもたちは、この徒歩旅行を通していろいろなことを学んだ。三浦半島の歴史・地理
・産業については言うまでもない。美しい自然環境の中で、みんなで行動することの楽し
さ、苦しみに対するがまん強さ、みんなで励まし合い助け合うことの大事さ、長い徒歩旅
行が教えてくれた目に見えないさまざまな生き方を、それぞれに身につけたように思った。

                                           96
   創作の心もえて

 船越小学校の八年間は、わたしの生涯の中で、壕も活発な創作活動を営んだ時代である。
今考えてみても、教育研究に専念していたころに、よくもこれだけの創作活動ができたも
のだと、われながら思う。
 子どもたちのためには、万葉集物語・児童万葉集物語・古事記物語、脚本「田原藤太秀
郷」、「さるかに合戦後のさる」、「父のみ魂にふれて」などを書いた。また、長輿善郎
監修の同人誌に「死人の足」を発表し、伝記『二宮尊徳』を書いた。
 古典研究によって「上代人の思想と信仰』の一書をまとめ、言語研究としては「横須賀
方言集』を出した。さらに、『神奈川県教育時報』には「横浜方言の研究」「良寛研究」な
どに対する批評を書き、地方新開には、「詩歌盲評」「夫婦道を語るー古典からの考察」
を連載し、「教員よどこへ行く」「一つの悩みー世の教育者へ」などの教育評論を書いた。
 従来詠み続けてきた短歌は言うまでもなく、詩を書き、エッセイを書き続けた。それら
はいずれもr身辺雑記〓鳳仙詩集」にまとめてある。
 上の中から何編かを書き出してみる。
 (1)『万葉集物語』
   若菜つみ                                    97
 ここは大和国の小高い丘です。春先の暖かい日光が丘一ばいにやんわりと照って、どこ
からか、ひばりの声がのどかに聞こえて来ます。もう雑木林は、赤いかわいい芽や、銀色
に光った美しい芽を出して、春が来たのをよろこんでいるようです。若菜も目立って伸び
ました。よく見ると、枯草のかげや木の下などに、かわいいすみれがこっそり咲いていま
す。
 先ほどから一心に若菜をつんでいた少女は、二、三十歩前から鳴き上ったひばりの声に、
ふとつむ手をやめて、うっとりと聞きほれていました。「まあ、何とかわいい声だこと。」
ひばりは、だんだん高く鳴き上って、やがて青くにじんだ空の中へ消えて行きました。
 遠くの山々は、かすみにつつまれて、ぼんやりと見えます。どこからかそよそよと吹い
て来る風は、なつかしい春の香を送って来ます。向こうの丘にも四、五人の少女たちが若
菜をつんでいるのが見えます。少女はまた若菜をつみ始めました。
 「おう、あそこにもだれか、若菜をつんでいるようだ。行ってみょう。」そう言われな
がら、大勢のおともを連れて、少女の方へ歩いて来られた、見るからにりっぱな方があり
ました。それは雄略天皇様でした。
天皇様は、今日は大へん天気もよく暖かいので、おともをお連れして、やはりこの丘に若
菜をつみにおいでになられたのでした。そして、あちらこちら楽しくお遊びになっておら
れるうちに、ふとこの少女を見つけられたのでした。
片手にかごをさげたまま少女は、不思議そうな顔をして天皇様を見上げました。愛くるし   98
いその顔には、正直ですなおな少女の心がありありと現われておりました。「まあ、何と
かわいらしいのだろう」と、お思いになられた天皇棟は、少女のそばにお近づきになりま
すと、
  美しいかごを持ち、美しいへらを持って、この丘で菜をつむ乙女、家おっしゃい、名
  おっしゃい、この広い日本の国は、どこもみなおしなびかせて、私がおさめているの
  だ、私は名前も言わず、家も言わないが。
こう歌いかけられました。この歌を開いて、初めて天皇様であると知った少女の顔は、急
にかがやき、心は明かるく大きくなってくるのを感じました。
 それから天皇様も少女もおともの者も、みんな一生けんめいになって若菜をつみました。
ひばりは、あいかわらず美しい声でさえずっています。やがて天皇様は、少女をもお連れ
して御殿へお帰りになりました。
 だれもいない丘の上には、暖かい日光がねむそうにさしています。どこかで急にほうじ
ろが鳴き出しました。
        こ                              こ
(万葉集の歌、「篭もよ み篭もち ふぐしもよ みふぐし 持ちこの 丘に莱つます児
       家きかな 名のらさね そらみつ 大和の国は おしなべて 吾こそませ
       吾こそはのらじ 家をも名をも  雄略天皇御製)
                                           99
 (2)「古事記物語
すせりひめ
須勢理媛
       おうくにぬしのみこと すさのおのみこと
 ある日、大国主命は素箋鳴尊のお出でになる根の国の御殿の前に立って、大きな声で
案内を乞うておりました。やがて静かに衣ずれの昔をさせて、玄関に現れた須勢理媛は、
そこに勇ましそうに立っている大国主命をご覧になりますと、すぐに奥へ入って行かれま
したが、
 「お父様、玄関に大へん美しく勇ましそうな神様がまいっております。」
と、素糞鳴尊に申し上げました。素箋鳴尊が、早速玄関に出てご覧になりますと、大国主
                                                 むこ
命が立っておられましたので、心の中では大へん喜んで、早速須勢理媛の婿君にしようと
思いました。けれども、そんなことは、顔にも表さず
           あしはらのしこお
「ああ、あれは葦原色許男という神だ。」
と言って、すぐに部屋に通されました。葦原色許男というのは、大国主命の別の名で、日
本の国の武勇にすぐれた神という意味であります。
 素斐鳴尊は、その夜、大国主命がどのくらい勇気があるのか、またどのくらい忍耐づよ
                                          へぴ
いのかぜひためしてみようとお考えになりました。そこで命を蛇小屋に寝かせることにし
ました。
 それを聞いた須勢理按は非常に驚きました。というのは、その部屋は夜になると、大き   100
                                       、
な蛇がたくさん出てくる部屋だったからです。そこで、媛はひそかに大国主命に、蛇のひ

れをお渡しになって、
 「もし夜中に蛇が出て、かみつこうとしましたら、このひれを三度お振りになって、蛇を
 追い払いなさい。」
 大国主命は、たいへんお喜びになって、「よし、出て来い」と思いながら床につきました。
それから間もなくでした。何だか物のすれ合うような、気味の悪い物音がし出したかと思
うと、屋根裏や床の下、部屋のすみずみ、あちらからもこちらからも、大きな蛇が、にゅっ
と顔を出しました。五疋、十疋、二十疋、それがみんな大きなかま首を持ち上げ、恐ろし
い赤い舌を、ちょろりちょろりと出しながら、するすると大国主命に迫って来ました。今
にも命に飛びつきそうです。「あっ危ない。」命は床からばつとはね起きました。何という
気味悪さ、何という恐ろしさ。命の手には媛から渡された蛇のひれが、しっかりと握られ
ておりました。命はこの時とばかり満身の力を込めて、一度、二度、三度大きくひれを打
ち振りました。すると蛇は、またたく間に姿を消してしまいました。蛇からのがれた命は、
すやすやと眠っておりました。
 翌朝、元気な顔で起きて来た命をご覧になった素箋鳴尊は、今度は命を蜂の小屋に入れ、
翌日はむかでの小屋に寝かせました。けれども二度ともまた媛のお助けによって、命は安
らかに夜を明かすことができました。                          101
 三度とも平気な顔をして起きて来られた命をご覧になった素箋鳴尊は、今さらながら命
の勇気に驚きましたが、そ知らぬ顔をして、今度こそはと、命を御殿の前の広い野原に連
れ出されました。そして、草の生い繁った野原に向かって、鳴りかぶらをいこみました。
そして、そのかぶら矢をさがして拾ってくるように、命にお言いつけになりました。命は
たいへんこまったことだと思いましたが、仕方なしに、あちらこちら草をかき分けながら
矢をさがし始めました。
 それをご覧になった素糞鳴尊は、時分はよしと、その野原の周りに火をつけました。そ
んなこととは少しも知らず、「心に矢をさがしていた命が、四方の火に気がついた時は、
もうおそかったのです。
 逃げ場を失った命は、途方にくれてしまいました。火はだんだん激しく命の近くに燃え
広がって来ました。今度こそ命の命もあぶない。命は幾度かその火の中を駈け抜けようと
思いましたが、とてもそれは出来ないことでした。ああ、このまま焼き殺されるのかと思
った命は、ふとやさしい須勢理按を思い浮かべました。このままどうして死ねよう。何と
かしてのがれなければならない。そう決心した命は、気が狂ったように、のがれる方法は
ないかと、あたりを見回しました。
 すると、どこから出て来たのか一疋のねずみが、しきりに何か言っているのが目に付き
ました。                                       102
 「命よ、足元を強くおふみになってご覧なさい。そこは私たちねずみの穴で、入り口は
 狭くても、内はたいへん広うございます。」
と、言っているのです。これを開いた命は、「よし!」とうれしさのあまり力いっぱいに
足元をふみしめました。すると急に大きな穴があいて、命はその穴の中にころげこみまし
た。命はどんなにうれしかったでしょう。その中にじっと隠れている間に、火は頭の上を
焼き過ぎていきました。またしても命はあぶない命が助かったのです。命が穴からはい出
して来ますと、いつの間にか、先ほどのねずみが、鳴りかぶらをくわえて、命の前に走っ
て来ました。
 須勢理媛は、今度こそ命も焼け死んでしまったものと思い、欺き悲しんで、すっかり葬
式の道具を用意し、泣く泣く野原に命の死がいを探しに出かけました。素箋鳴尊も、今度
こそ大国主命も焼け死んでしまったものと思っておりました。
 ところが意外にも、鳴りかぶらを持った命が、勇ましく野原から出て来ましたので、須
勢理姥は、こおどりして喜びました。
 命が無事に帰って来たのをご覧になった素箋鳴尊は、今度は命を広い部屋に入れて、そ
こにごろりと横になり、「頭のしらみを取れ」と言いつけられました。命は言われるまま
に近づいていきました。そしてしらみを捕ろうと思って、髪の毛をかき分けますと、そこ
にはしらみはいないで、真っ赤な大きなむかでが、うようよとはっておりました。      103
 命がどうしようかと困っていますと、須勢理媛が、柿の木の実と赤土とをくれました。
早速柿の木の実と、赤土とを口に入れて、かんでは吐き出していました。それをひそかに
ご覧になっていた素箋鳴尊は、命が本当にむかでを取ってはかみ殺しているものと思い、
まあ、何と勇ましいのだろう、かわいいやつだと思い、すっかり安心して、ぐっすりと寝
入ってしまいました。
 そこで命は媛と相談して、ここを逃げ出すことにしました。けれどもこのまま逃げたの
では、いつ目をさまして、追いかけて来るかわかりません。素箋鳴尊の髪の毛をそっと、
部屋の垂木に結びつけ、雨戸には大きな石をのせかけて開かないようにしました。そして
須勢埋媛を背負い、素箋鳴尊が持っておられた太刀と弓矢と、それから琴とを持って、こ
っそりと逃げ出しました。ところが、あまりあわてましたので、琴を木に引っかけて、大
きな音を立ててしまいました。その昔に驚いて目をさました素箋鳴尊は、髪の毛が垂木に
しぼりつけてあるのも知らず、急に立ち上がりましたので、家はみしみしっと倒れてしま
いました。二人は尊が髪の毛を解いている間にどんどん駈けて、根の国と出雲の国の境ま
で逃げて来ました。
 すると、後から追って来ました素養鳴尊は大きな声で
 「おうい、わしはもう追いかけはしない。その太刀も弓矢もみんなお前にやるから、それ
 で悪い者をたいらげて、天下を治めるがよい。それから須勢埋姥は、今あらためてお前   104
 にやる。行く末長く可愛がってくれ。」
と言いました。やがて出雲の国へ行き着いた大国主命は、その地をすっかり平げて、我が
国の基礎を定めました。

 (3)脚本

  児童劇父のみ魂にふれて
   第一幕
     時 冬の夕方
     所 淋しい村外れのお墓の近く
     人 中田竹太郎(十二、三歳の少年)老農夫 小学生六人 巡査
       村人、青年四人 竹太郎の亡父の魂
舞台
  冬の夕方、淋しい村外れの道ばたを写す。雑木・松・雑草等が寒そうに畢えている。
  道からちょっと引っ込んだ所に、お墓が見える。――里嘉を用いて、舞台を出来るだ
  け暗く陰気にしておく。
 幕開く
   仕事帰りの老農夫が、鍬をかつぎ、きせるをくわえ、寒そうなかっこうで、足も重く  105
   舞台右方より登場。その時お寺の鐘が静かに鳴りひびき、烏の囁き声が遠くの方から
   二声三声聞こえて来る。老農夫はちょっと淋しそうに観衆の方を眺めながらだまった
   まま左方に退場。すぐ後から学校帰りの子供五、六人、「夕やけこやけ」の歌を歌い
   ながら左方より登場。烏がまた淋しそうな声で鳴き出す。一同歌をやめて耳をすます。
子供一 「どこかで鳥が鳴いている。」
子供二 「何だかさびしいなあ。」
子供三 「だから、いそいで帰ろうよ。」
子供四 「ここのお墓の所はいつもきみが悪いんだよ。」
子供五 「この間、ここからおばけが出たんだって。」
子供一 「うそだよ。昭和の御代におばけなんかいないよ。」
子供五 「でも隣のおじさんがそう言っていたよ。」
子供二 「そうだ、いい事があるよ。みんなで大きな声で、歌を歌って行くんだ。そうすれ
     ば、おぼけのやつびっくりして逃げてしまうよ。」
一同  「うん、それがいい。それがいい。」一同、子供二にしたがって、元気に歌い出す。
    出て来いおばけ何でも来い
    おいらは強い日本男子                             106
    こわくはないぞ手を振って通る
  歌を歌っている間に、鳥しきりに鳴く。歌が終わるころ、異様な物音が聞こえ出す。
  一同歌うのをやめて目と目を見合わす。中には逃げ腰の者もいる。やがて舞台右方の
  松の木のかげから、大きな三つ目入道がにゆうっと首を出す。
一同  「わあっ、おぼけだ、おぼけだ……」
  ころがるように逃げる者、腰をぬかしてしまう者などがあって、舞台さわがしい。三
  っ目小僧はすぐに消えてしまう。ようやく子供たちが舞台から消えると、右方および
  左方から、村の人、青年、巡査等五、六人、手に手に鍬、刀、こん棒などを持って、
  子供を案内にし、ぬき足さし足で舞台へ出て来る。そして、三つ目小僧の出たあたり
  を、そっとのぞき回る。いかにもこわそうに、やがて三つ目小僧がいないことが確か
  められると、急にみな元気を出し始める。
巡査 「どんなおぼけだって、わがはいが来れば、みんな命からがら逃げてしまうよ。」
村人 「いや、だんな、わしがこの鍬をかついで来たからなんでさあ。」
青年 「何言ってるんだい。れのこのうでにおそれたんだよ。」
  一同争っている時に、また異様な物音が聞こえて来る。と、急にみんなだまってしまう。
  そして、真っ青な顔をして音のする方へ目をくぼる。
   やがて、再び大きなおばけが、にゆうっと首を出す。百姓、青年まず腰をぬかす。   107
  巡査ぶるぶるふるえながら、サーベルを抜いて切りかかるが、これまた腰をぬかして
  左方に退場。三つ目小僧、舞台の正面へ出て来て、扮装を取ると、中からそまつな着
  物を着た竹太郎が現れる。
竹太郎「あはは、あはは……。」
  腹をかかえて、舞台中を  笑いころげまわる。やがて、
竹太郎「何とみんな臆病な人間なんだろう。うそのおぼけとは知らずに、みんな腰をぬか
    してしまった。ああおもしろい。こんなおもしろいことはない。学校へなんか行
    くよりよっぽどおもしろいや。あしたもまた、うんと驚かしてやろう。」
  この時、お墓の後ろから、白装束の人が現れ、竹太郎に近づいてくる。何も知らずに
  得意になってしゃべっている竹太郎の後ろへまわると、
父  「これ、これ」
  と声をかける。竹太郎びっくりして、振り返って見ると、父の幽霊なので、二度び
  っくりする。
竹太郎「あっ、お父さんだ。なくなったお父さんだ。どうしてこんな所へ来られたんです。」
  竹太郎が走りよって取りすがろうとすると、幽霊は、後ろへ下がってすがらせず、静
  かに、
父  「これ竹太郎、お前は今何をしていた。」                     108
竹太郎「はい。」
  竹太郎うつむく。
父  「はい、ではない。お前は何という悪い人間だ。これ見よ。お父さんは、お前がそ
   うして、悪い事ばかりしているから、死んでも極楽へも行けず、こうしてお前の事
   を心配しているのだ。」
  竹太郎だんだん頭を下げる。寺の鐘が淋しく聞こえる。父さらに竹太郎のそばに近づ
  いて、
父  「竹太郎、お前はこじきになるつもりか。それともどろほうになるつもりか。こじ
   きやどろほう、そんな人間は、この世に用はないんだ。(暫く間を置く)おい、竹
   太郎、神様もお父さんも、高い所から毎日お前のすることを、ようく見守っている
   ぞ。今からすっかり心を入れかえ、まじめな人間になって、「心に働け、「心に勉
   強しろ。そして立派な人間になってくれ。それがこのお父さんのたった一つのお願
   いだ。竹太郎わかったか。」
  竹太郎いつの間にか平伏している。
  父墓石の後ろへ消える。
  しばらく平伏していたが、やがて頭を上げた竹太郎は、すっくと立ち上がり、父のお
  墓にていねいに敬礼して、
竹太郎「ああ、悪かった。お父さんにすまない事をした。お父さん許して下さい。そうだ   109
   今から心を入れかえよう。そしてうんと勉強して立派な人間になり、お父さんを安
   心させてやるんだ。勉強だ!勉強だ!ようし、僕はきっと大臣になって見せるぞ!
   そうだ、そうだ。」
  寺の鐘、また淋しく鳴り渡る
    第二幕
      時 第一幕より五十年後の冬
      所 第一幕と同じ
      人 文部大臣中田竹太郎 文相秘書官大田定夫 村の人大勢
  次の唱歌とともに幕あく。
       いで
     都に出し     少年の
     心はかたし    ひたすらに
     ひるは働き.   夜はまなび
     おこたる日とて  なかりけり
     つとめはげみて  五十年
     功なり名とげ   故郷の
     父のお墓に    ひざまずく                        110
     ほまれは高し   ああ文相
  歌(1)を歌い終わったころ、中田文部大臣ただ一人、右方より登場、感慨探そうに
  あたりを眺めまわしながら、かつておぼけのまねをして、人々を驚かしたあたりをじ
  っと見つめる。
文相 「ああ、あの時からもう五十年たった。その間僕は真っ黒になって働いた。夢中に
    なって勉強した。そして今は文部大臣になった。これもみんなお父さんのおかげ
    だ。どれ、お墓におまいりしよう。」
  お墓の方へ歩き出そうとして、ふと秘書官のまだ見えないのに気がつく。
文相 「そうそう、大田はどうしたろう。」
  文相立ちどまって、舞台右方を眺めている所へ秘書官大田、お花と線香を持って登場
  する。大田「閣下おくれましてすみません。」
文相 「大田あれを見よ。あそこは僕が十二、三のころ、おぼけのまねをしては、村の人
    を驚かした所だ。まだみんなあの時のままになっている。何だかこう目がしらが
    熱くなってきた。(しばらく沈黙)さあ行こう。」
  大田をうながして、お墓の前へ行き、お花と線香を供え、うやうやしく礼をして、あ
  たかも人に物を言うように、                            111
文相 「お父さん、ただ今帰ってまいりました。私は都へ出てからは、お父さんのお言葉
    の通り一心に働き一心に勉強いたしました。お父さんどうぞ喜んで下さい。私は
    今度文部大臣になることができました。」
  文相の言葉が終わると、お墓の後ろから、父の亡霊が現れる。文相はっとしてひざま
  ずく。
父  竹太郎か、よくやってくれた。うれしく思うぞ。これからも、なおなお体を大切に
   して、お国のためにつくせよ。」
  亡霊消える。
  ちょうどこの時、楽屋の方で、万歳・万歳の声がにぎやかにし、だんだん近くなる。
  やがて、「祝入閣中田竹太郎君」と書いた、大きな旗を押し立てた行列の先頭が舞台
  に現れる。皆手に手に国旗を持っている。村の人大勢、女、子ども。先頭の一人、墓
  前にひざまずいている文相を見つけて、
村人一「だんなは、ここにいやしたか。」
村人二「お父っつぁんも墓場の下で喜んでるべぇ。」
  文相、立ち上がって
文相 「ああ、みんなご苦労様、ご苦労様。」
  村人四、五人、文相のそばへ寄って行き、ていねいに礼をする。やがて、

村人三「おい、みんな、いいか、だんなの顔をおがみてえものは、ここへ来い。」      112
  村人大勢、文相のまわりへ寄って来る。
文相 「皆さん、ご苦労様です。中田です。小さいころは、ずいぶん皆さんにご迷惑をか
    けましたのに、今日は、こんな熱心な歓迎を受けて、何とお礼を申してよいか分
    かりません。ありがとうございます。」
  文相の話が終わると同時に、村人の中に、大きな声で「中田文部大臣万歳」と叫ぶ者
  があり、一同これに和して、万歳を連呼する。やがて、

村人一「さあ皆さん!これから、おらが村のだんなを先頭にして、村中をねり歩こうじゃ   113
    ねえか。」
一同 「賛成……」
  やがて、一同万歳を連呼しながら、文相を先頭に行進を始める。

 (4)伝記――『二宮尊徳伝』
 昭和何年だったか覚えていないが、船越小学校へ転任して間もなくであった。二宮尊徳
生誕二百年祭が行われたのを機会に、報徳記、二宮翁夜話などを読んで、感銘を深くした。
読んでみると、世に知られた二宮金次郎はどこにもなく、独立経済学者として、烏山藩な
ど各藩を尊徳の仕方によって復興させたことを知った。すると、例によって、尊徳を研究
してみようという心が、むらむらと湧きあがった。
 そこで、まず生誕地神奈川県相山の里を訪ねてみることにした。小田原から小田急で楯
山駅で降りた。あたりは一面のたんばで、近くに、金次郎が柴刈りをしたという矢佐芝山、
その後ろに大山が泰然とそびえている土地である。
 まず、捨て苗を植えて、一俵の米を収穫したという溝を見た。この事実から後に尊徳は
「無から有を生ず」という理論を構築した根拠とした所である。金次郎が川普請に出たと
いう相模川の堤もほど近い。修身の教科書で習った、金次郎が夜勉強する行灯の灯油を惜
しんだおじの家には、今その子孫が住んでいる。家の中を見せてもらったが、家人は見学
に来る人たちを心よく思っていないようであった。                    114
 あたりの情景をしっかり目にとめて、小学校に行ってみた。そこには金次郎が読んだと
いう『大学』に、注を書きこんだのが展示されていた。また、尊徳がはいたという大きな
わらじも展示されていた。小田原の二宮神社にもお参りした。
 二日間にわたって、金次郎から尊徳になるまで過ごした環境をつぶさに観察した。農民
が尊徳の所へ金を借りに来ると返し方を教えて貸したという。その返し方というのは、ご
飯をたくのに薪何把を便うかと尋ね、そのうちの一把を倹約してためておいて借金を返す
というものであったという。そういった風習を育てようとした雰囲気が感じられる土地柄
のように感じた。
 こうした環境の中で育った、独得の経済学を構築し、仕方を工夫し、報徳教を築き上げ
た尊徳を中心にして尊徳伝を書いた。

 (5)創作−「死人の足」

 作家長輿善郎の主宰する門下生たちの【太虚」という同人誌があった。それに同人の一
人に誘われて、泉貢之助のペンネームで書いたのが、短編「死人の足」である。ここには、
「虚無的時代の意味」という長輿善即の論説を始め、若手の作家たちの文章が載せられて
いる。「死人の足」は、大学の国文科を卒業したKという先生の実話をもとに書いたもの
である。                                       115
 彼は就任早々芸者遊びを始めた。三日とあげず淫な目をして出勤する。時には寝まきの
まま学校へやってくることさえある。だから三時間めごろから、図書室や当直室へ入って
昼寝をしている。
 ある日、高等科の女生徒の一人が、宿直室へ裁縫の道具を取りに行った。福直室の戸棚
には、上に宿直用の寝具、下に裁縫用の道具が入れてあった。女生徒は動きの悪い戸をこ
じあけたとたん「あっ!こわい。」と叫ぶと、ころがるように小便室へ駈け込んだ。けれ
ども、肩で呼吸していて、しばらくはロもきけなかった。
 居合わせた小便さんたちは驚いて、「どうした。どうしたんだ。」と取り囲んだ。「戸
棚の中に人が死んでる。……こんな大きな人の足が……。」女生徒はやっと口を開けた。
小便たちの顔が見る見る変わったことは言うまでもない。例のK先生が芸者遊びから帰っ
て昼寝をしていたのである。文芸誌に初めて書いたものである。
   (この外、「墓参」「革に寝て」「兄」「帽子」「たらひ」「小便の功名」などの
    作品が『身辺雑記』に載っている。)

 (6)児童詩の鑑賞と批評

   @ 鑑賞
 われわれが芸術作品に接するとき、それが絵画にしろ彫刻にしろ、音楽にしろ詩歌にし   116
ろ、そこには必ず芸術活動としての鑑賞が行われる。実に鑑賞は芸術の発生とともに生ま
れ出た芸術的活動である。一体鑑賞とは何か。
 鑑賞とは、認識作用と審美活動との中間における意識状態をさしている。作品に対して
同感共鳴の快的情緒を味わう。すなわち作品の中に作者の全容を見出し、作者の白光に燃
える魂に触れ、作者即自己の陶酔境に遊ぶことである。
換言すれば、作品に対する愛の創造過程における、作者と自己との霊的交渉関係の相関
的、連続的展開発展である。愛は認識より生まれる。認識は愛を深め、愛は認識を深める。
ここにおいて、私は鑑賞即愛の創造であると言いたい。
 この鑑賞が、より理知的に行われて、認識活動が旺盛になって、発生的立場に関心をも
つ時、鑑賞は批判研究へと展開する。それに反してより感情的になると、作品を通して眠
れる自己の魂を呼び起こし、そこに憧れの翼を広げるとき、それは創作活動へと発展する
のである。
  A 批評
 批評は鑑賞より生まれる。鑑賞なしには批評は成り立たない。批評は鑑賞の展開発展の
姿である。同時に芸術指導の任を双肩にになうべきものである。随って批評は創作心情に
比して著しく理知的であり、冷やかであることは言うまでもない。
 しかし、これについては二つの立場が考えられる。第一は、その発生的立場であって、   117
主として作者の創作心境即ち感動の強弱、動静等の分析批判に始まり、更に観察、表現の
精粗、可否、妥当か否かに及ぶ。代言すれば、作品の内面性や表現の方法について行われ
る。
 第二は、その効果的立場に立って、表現が結果においていかなる効果を納めているかに
ついての批判をなすものであって、主として作品のもつ調子、余情等に解剖のメスを入れ
るものである。
 この二つの立場は、相関関係を保持するものであって、いずれか一方にのみ偏した批評
は許されるべきものではない。
  B 鑑賞・批評・創作の相関関係
 次に鑑賞・批評・創作研究の三つの事項を図示して、その関係を明らかにしたい。
 第一指導 ここに於いては、作品全体から受ける感じ、気分とか、情緒とかを味わう印
      象の把握が行われる。
 第二指導 その印象の依って来るところの原因を探究することによって、鑑賞を深めて
      いくところの分析が行われる。ここで注意すべきことは、いかに巧に対象を
      分析し総合しても、決して詩は生まれないと同様に、ただ単に詩の素材、表
      現を巧に分析したからといって、決して鑑賞はなし得べきものではないとい
      うことである。                              118
 第三指導 分析の結果を総合し、再び作品の持つ感じを味わうのである。ここにおいて
      は、第一指導におけるよりも、鑑賞は一層深さを増すべきものである。
 第四指導 鑑賞の指導の結果は、眠れる自己の覚醒となり、自ら詩的表現を試みたくな
      る。創作心情の活動である。
 第五指導 第二指導が理知的に行われ、発生的立場により多く関心を持つとき、作品の
      好悪の如何に関わらず、批評・研究が行われる。
  C 児童詩の鑑賞・批評
 ここでは主として、教師は児童詩に対して、如何なる態度で、如何なる程度に、如何な
る事項を研究すべきかについて述べることにする。
 指導者は、次の二つの立場に立って研究しなければならない。
 1 純正芸術としての鑑賞・批評
 2 児童の創作心境を主とした鑑賞・批評
 前者においては、純正なる芸術的価値を論ずるもので、後者は、児童の創作動機や創作
心理過程等に、鑑賞・批評の重点を置き、表現そのものについては、前者よりはるかに軽
く扱うものである。実際指導に当たっては、もちろん後者に重点を置くべきであるが、前
者の取り扱いも等閑に付すべきではない。
   だいてみた                                   119
   友道のにほひ
   まだするよ
    (五年・荒木幸信)
 官能的な匂いの強い作品だ。撫でてやりたいような親しさなつかしさを感じさせる豊か
な詩情と、一種特別な気品、純真な童心を率直に表現している。この詩から、何かしら甘
えているような訴願的な、しかも幼児をいつくしむ作者の心情を汲んでやらねばなるまい。
  おう、友道もずいぶん大きくなった。どれだっこしてごらん。うん重い重い。だかれ
 た友道はにこにこ笑っている。こうしてだいてみたあの時の友道の乳くさい匂いが、い
 まだにどこか自分の体にしみついている。なつかしい匂いだ。
 こうした気持ちである。僅か三行の詩にすぎないが、余情きわめて豊かな作品で、そこ
に表現されている時の経過というものが、非常にはっきりしている。「だいてみた」とい
う飾り気のない卒直で簡潔な表現と、「友道のにはひ」という巧みに単純化された鋭敏な
嗅覚と、さらに「まだするよ」と、訴願的な表現が、純真な童心によって統一されている
結果である。
「みた」という過去経験の表現、「まだしている」という現在進行形の表現、「よ」という
歎辞は、非常に効果をあげている。さらに、全体からみて、一語の冗語もなく、よく単純   120
化され、これだけの詩情を、僅か三行にまとめたことは、敬服に値するものと思う。
 とにかく、作者の感動がきわめて自然に流れ出たために、表現が少しも目につかない。
いわゆる内容律がひしひしと感じられる。
 さらにリズムの上から考察してみよう。第一行は五音、第二行は八音、第三行は五音で
ある。第一行は軽快、第二行はおもおもしく、第三行は、第一行が三音・二音よりなる五
音なのに対し、これは二昔・三音よりなる五昔であるため、語に屈折があり、第一行より
は語感が重い。この第二行の重い八音と第三行の屈折のある五音が、大きな効果を与えて
いる。この詩が持つ親しみ、なつかしみの一部はここから生まれる。
 また、第二行と第三行の間に休止のあることも、軽視すべきではない。もちろん、これ
は意識的にそうしたものではない。作者の感動の自らなる表現が、このリズムを生んだの
である。
    とんびが輪をかいている
    いそがしそうだ
    きょろきょろしながら
    飛びまわっている
    ふと見ると
    空は青くすみきっている                            121
    とんびはあいかわらず
    餌をさがしている
        (五年・内田輝義)
 碧空に大きく輪をかいて、悠々と飛翔するとんびの姿が、さながらにこの詩に表現され
ている。「いそがしそうに」「きょろきょろしながら」そう表現しながらも、やはり詩全
体からは、のびやかな階調と、落ち着き払った、しかも全神経をとんびに集中している作
者が看取される。
 もちろん、これは芸術的立場から眺めたら、決して上乗なものではない。しかし、とん
びの動作も一々に驚異の目を見張っている純粋無邪な作者の心境と、大自然の中に溶け込
んでいる作者とを、評価してやらねばなるまい。
 作者が大した表現技巧を持たず、不徹底な表現を試みながら、これだけの詩的効果をあ
げているのは、作者の対象に対する驚異と感動によるのであろう。
 次に、句尾ごとに「いる」で結んでいるが、これは少なからず詩的効果を削減している。
表現をもっと単純化し、緊密化すべきであろう。
 「ふと見ると」「空は青くすみきっている」この二句を挿入したことは、董竜点晴の妙を
得たものと言えよう。「ふと見ると」が実にいい。大人には言えないことだ。とんびに心
を奪われていて、今までは、少しも澄みきった空の青さに気がつかなかったのだ。ここに   122
もまた、空に対する作者の驚異の情を汲み取ることが出来よう。
 こうして、ここに時間的経過をおいているので、次の「あいかわらず」がきわめて自然
に引き出されている。
 次に構想上から考えてみよう。第二行、第三行は、第一行を承けて、更にそれを別な方
面から表現し、第五、六行は、全く目を転じて、空の美を表現し、内容に変化を与え、第
七、八行は、第一行より第六行までを、完全に締めくくって結んでいる。これは漢詩の起
承転結の法にかなったものと言えよう。無技巧の技巧として教えられる。
 要するに、こうした児童詩にあっては、表現技巧の巧拙は第二、第三として、どこまで
も作者の全容を見出し、鑑賞・批評の重点を、つとめてそこに置くべきであろうと思う。
       *
 以上、作者の創作動機、創作心境と表現技巧とがぴったり合った詩の鑑賞・批評と、然
らざる詩の作者の創作動機、創作心境を重くみる詩の鑑曹・批評とについて述べた。児童
詩の鑑賞が、理知一点張りであったり、表面的・外形的に流れて、児童の創作動機、創作
心境が無視されたりすることは珍しくない。心すべきことである。

 (7)社会に目を

 狭い教育社会の中で、まるで水を得た魚のように、自由に考え、自由に振舞っていても、  123
やはり井の中のかわずであった。それに気がついた時J第一に目に付いたのが、地方新聞
であった。当時、船越に石井という記者がいて、教育活動、社会活動に奔走していた。彼
が機縁になって、新開とのかかわりを持つようになった。
 最初に目に付いたのが、詩歌壇であった。毎日発表される詩や短歌が、いかにも幼く感
じられた。そこで、自分の幼さは棚に上げて、「詩歌盲評」を連載した。また、独身であ
ったのに「夫婦道を語る−古典からの考察」を連載した。更に生意気にも、「教員よどこ
へ行く」などの教育評論も書いた。じっとしてはいられない二十五、六歳の時であった。
  @ 一つの悩み−世の教育者へ
 私はこの世に生を享けてすでに二十六年。常に魂の安住を求めつつ、ともすれば起こる
慨怠の心に自ら鞭を当ててきた。ある時は苦悩のはて、一大勇猛心を振起し、一路邁進人
生の急所を突こうとしたこともあった。それは夕立の雲の峯よりもはかなく消滅して、た
だ後に残るものは、自分の弱さ力なさを責める哀れな鞭に過ぎなかった。
 またある時は、一歩退いて冥目数日自ら行くべき道を悟った。しかし、私の虚栄心がそ
れを許してくれなかった。私は進むためには、余りに弱く生まれつき、退くためには余り
に強く英雄崇拝的な感情を培われてきた。
 私は人間として、自分の生くべき道を知悉している。しかし、今私にはどうしてもその
道をたどって行くことが出来ないのだ。私は悩む。自分自身を知る故に悩む。もちろん、   124
体力に恵まれ、経済的に恵まれ、さらに才能に恵まれた人々や、何等自己を凝視すること
もなく、ただその日その日を惰性をもって送って行く青年には、こうした悩みのあろうは
ずがない。
 けれども、少なくとも真面目に人生を生き抜こうという青年にとっては、多かれ少なか
れこうした悩みに直面しているのではないかと思う。
 さて、小学校六か年の教育、それはすべて特殊権力崇拝の教育以外の何物でもなかった。
偶像化された英雄豪傑・聖人崇拝の誤れる教育は、非計晝的・非実践的な欲望を盲目的に
拡充していった。それでなくてさえ、幼少年時代においては、本能的欲求に近い権力崇拝
熱を、然かも彼らが崇拝する先生に鼓吹されては、如何に鈍感な人間と雉もそこに憧れの
翼をひろげずにはいられない。
 偶像化された英雄・権力崇拝は、その背後に厳然として存する動かし得ない因果関係を
探究する余裕をさへ与えてくれなかった。随って私たちの認識した英雄・聖人は、全く時
代的背景を有せず、またその苦心や努力は、模糊の中に押し隠されて、偶然にして生まれ
た者のみであった。
 私たちは、常に英雄・聖人たらんことを強いられ、またその模倣をすることに不思議な
興奮をさへ覚えた。私たちは、あの懐かしい桃太郎の鬼征伐の話に、どれだけ幼い魂を培
われたことであろう。「桃太郎のような人に」と、先生は常に教えて下さった。       125
 しかし、桃太郎は生まれながらの英雄であった。苦しみも、悩みも、努力も持たぬ超現
実的な存在であった。犬・猿・雑子を率いる最大権力の所有者であった。随って私たちの
崇拝の対象は、桃太郎に独占されていた。犬や猿や雅子の存在は、極めてその影は淡く、
それに崇拝の対象を求める者は、絶無と言ってよかった。
 しかも、犬・猿・雑子は、桃太郎にとって、無くてはならない大きな存在であることを
考える時、私は嘆かざるを得ないのである。かくして、特殊権力の崇拝は、常に正しき他
を排斥していたのであった。
 私たちの受けた教育は、この桃太郎たらんことを強要されて、豪も犬猿雑子たらんこと
を許されなかったのである。それは余りに社会を無視し、人道を解せざる教育であった。
 頼朝や秀吉や家康の事跡は、その時代の背景を考えた場合にのみ、最高価値を発揮する
ものである。われわれが、彼等から得る所は、決して彼等の事業その物の模倣ではなく、
彼等が確実に領有していた堅忍不抜、しかも機を見るに敏なる精神や万難を排してただ一
路ぶつかって行く偉大なる意志と実行力である。それにも関わらずわれわれはただ漠然た
る英雄崇拝熱に浮かされてきた。
 六か年の教育を終えて、一歩社会へ出ようとした時、大将や大臣や博士や大実業家を夢
見ていた如何に多くの少年の群れがいたことか。彼等が学窓を出て数年、すでに百姓た
り、商人たり、雇用者たることを、約束されている将来を知った時、彼等の失望落臆は如   126
何ばかりであったろうか。
幼き折鼓吹された夢は、到底現実の世界においては、実現され得べきものではなかった。
そして、そこにはただ、自棄と断念と再度の発奮(それを成し得る者は、明けの明星にも
比すべきであろうが)堕落への道が待ち構えているのみである。
 こうして、桃太郎たらんと夢見ていた人々にとって、存在の価値を認められていなかっ
た犬や猿や雑子になることは、自己を否定することに外ならない。これほどの苦痛が悩み
が他にあろうか。
 これに引き続く五か年の中等教育は、人生の謎を解く、貧弱な知的な鍵を与えてくれた
に過ぎなかった。小学校において恵まれた人間性をただ惰力によって伸ばしたのみであっ
た。収穫と言えば、ただ僅かばかり、社会の実態を、虚飾に覆われた世界を、少しばかり
眺めさせてくれたことだった。
 私はこうした教育を受けて世に出た。そして私が幼い夢の中に幻滅の悲哀を感じたのは、
もう四、五年前になる。それから、理想を再認識しなければならなくなった。そこに英雄
崇拝的な感情に徹頭徹尾支配されていた自己の不明蒙昧を発見した時、私は少なからず
狼狽した。
人生行路において、最も美しい成功、それは巨万の富を積むことではない。たとえ身は
茅屋の中にあっても、神の道を堂々閥歩し得る者こそ真の成功者である。          127
何でもない、あたりまえな結論である。だれでも分かっていることだ。しかし、私の心の
一隅には英雄崇拝の余櫨が、未だになお燃え続けている。それ故に私は悩む。それは今の
ままの私にはどう仕様もない悩みだ。仏陀にすがり、神に求めようとする心はあっても、
それを信ずることが出来ない。インテリーの泣くに泣かれぬ悲哀である。

要するに、現在の私は余りに弱いのである。過去の一切を精算し得ない意志の薄弱な人間
なのである自分の行くべき道を識っていながら、それに邁進し得ないのである。余りに盲
目的な英雄崇拝が、現実の世界にぶつかった時、私の意気が阻喪してしまったのである。
 ここで、今まで記したことを要約してみよう。
 1 私は盲目的な英雄崇拝・権力崇拝の教育を受けてきた。
 2 しかし、現代社会は、われわれの夢を実現するためには、余りに完全に、余りに複
  雑に組織されている。
 3 そこで、私は幻滅の悲哀を感じっつ処世の大道を考え直してみた。そして自らの誤
  謬を発見して、新しい道を識った。
 4 しかし、その道を進むためには、英雄・権力崇拝の感情が余りに強く、また、それ
  から生まれる虚栄と努力に対する恐怖感が常に付きまとっている。 
 5 そこで進むこともならず、退くこともならず、従来の惰性で、不徹底な自己欺瞞的
  な行進を続けているのである。それは淋しい、悩ましい行進だ。いつになったら魂の   128
  安住が得られるのだろう。
 私は、ここで筆をおいて、次の世の教育者にお願いする。
 前述の如き教育が、如何に多くの青少年たちを毒しているかを充分に識って戴きたい。
ここに記したことは、もちろん私個人に関することであるが、こうした悩みを持っている
青少年の如何に多いかも想像して戴きた。そして更に、足下に戯れる幼い子供たちを静か
に凝視して戴きたい。識らず識らずの間に、英雄崇拝、特殊権力崇拝の教育を施しっつあ
りはしないか。どうぞ反省して戴きたい。
 もちろん、教育にたずさわっている方ならば、一笑に付してしまわれよう。しかし、教
育論は教育論として、皮肉にも事実は反対に、そうした教育がなお広く公然として行われ
ているのである。いわゆる修身教育なるものを見るがいい。私が受けた教育を思うと慨嘆
にたえない。
 どうぞ、子供たちに、英雄・権力に対する充分に正しい理解を与えて戴きたい。盲目的
な崇拝はどこまでも排して戴きたい。そうしたら子供たちはどんなにか落ち着いた、楽な
気持ちになれるであろう。
 どうぞ人生を社会をしっかりと凝視して、一歩一歩確実に人間を作りあげていくような
子供たちを育てて戴きたい。あのピラミッドのように、基礎の確実な然かも、高く空に向
かって燃え上がっていくような覇気に富んだ子供を育てて戴きたい。            129
 私のように、意志の薄弱な、気力のない人間でありながら、ただ欲望のみは、捉え所の
ない夢を見ているような人間だけは、作り出さないで戴きたい。
 私は、幼い子供たちが、やがて私のように、つまらぬことに悩まぬよう祈りつつ、なお
世の教育者にくれぐれもお願いしてペンを欄く。
  A 詩歌盲評(八) □ 相田木蓮の花 藤田秋漣
   天竜も静かに聞かん木蓮の開く朝を読む普門品
 「天竜も静かに聞かん」と大きく強勢に歌い出し、「木蓮の開く朝を」とおおどかに受
け、そして、名詞止めにしているが、奔流の渕によどむが如き歌である。透徹した作者の
主観を見、静観する態度を喜ぶ。歌外の静境味わうべきである。ただ一つ結句の少し弱す
ぎるを惜しむ。
   み経読む寂静無為の夜の明けを庭の木蓮ほのかに白し
 「寂静無為」(仏語)こうした言葉を不用意に使用すると、一首を生硬にし、嫌みを持
たせ、こけおどしになり、不自然なものにしてしまうのだが、作者は巧みに生かして、そ
うした跡を少しも残さない。大きな静かさのこもった、しみじみとした歌である。下二句
「庭の木蓮ほのかに白し」は説明に終わっている。こうした直接的な言い方は、この場合避
けたほうがいい。一首を一層リズミカルにする上において、またしり切れとんぼにならな   130
いようにする上にも一考を要する。
 ここで「庭の」とことわってあるが、その必要はない。「夜の明けを」で、充分庭の木
蓮であることは分かる。作者の気分をこわきない範囲において、「ほのかに白き木蓮の花」
とでもしたらどうか。何れにしても二首とも堂々たる詠出、近ごろでの佳作である。
 備考 作者以外に読まれる方のために、参考に、この歌を味わうに必要な次の抄出をし
   ておく。法華経 法師品 第十末節
   (前略)若し法を説く人の独り空開き所に在り寂莫として人の声なきにこの経典を
   読み謂じなお我そのとき、為めに清浄き光明の身を現し(中略)皆我が身を見るこ
   とを得せしむ。若し人空閃きに在らば我が天竜王、夜叉鬼神を遺して為に聴法の衆
   となさん。
   手にすれば卵だも温き初卵そのままにして鶏舎出でにけり
 「卵を産んだ。初卵だ。どれと手に取ってみると卵だほのかに温みがある。やがてまた
その卵を置いて鶏舎を出たというのであろう。」と思う。併し作者が卵を手に取ってみた
ことが、明らかであると、「そのままにして」が、すこぶるあいまいな言葉になってしま
う。「手にすれば…そのままにして」であるから、文字通りに考えると、卵を持って出て
来たように思えるが、全体を通してみるとそうは思われない。矢張り卵を置いて行ったの
である。「手にする」でなく、「触れる」にすれば、問題はないのだが、そうすると実際   131
問題として考えた場合どうだろうか。自分が今迄丹精した鶏が漸く初卵を産んだ。や、こ
れはと大喜びで家へ持って入り、他の者に見せてやるというのは、普通ではないであろう
か。上二句を読むと可なりそうした心持ちがうかがわれる。何れにしても不確実な表現で
ある。しかし、いいところをとらえている。
   君がつぐブドウの酒に流行歌節あやうくも歌いぬるかな
 ここへ来ると、もう全く駄目である。君の姿が少しも見られない。前の歌のような力強
さも、静観透徹した主観も見られない。ただ上っ調子な特異性のない歌である。取材に対
する燃焼が足りないのだ。だから真剣味がない。概念的であることを免れない。
       *
 わたしは、船越小学校在任八年、福田校長の知遇を得て、思う存分教育研究に、自己開
発、自己伸長に、子どもたちと共に、伸び伸びと生きて来たように思う。わたしの生涯の
中でこの時代ほど緊張し、真剣に、忠実に生きた時代はなかったように思う。
しかも、その間にあって、身につけた織物・染色の業を捨てて、小学校教育に身を投じ、
更に小学校教育から中等教育へと転じるなど、二度の転機を迎えた。わたしの生涯の最も   132
はなやいだ時代であった。

                                           133
    3 溌刺とした青年たちと(横浜元街商業専修青年学校二一十九歳)

   第二の転機

 わたしは二十六歳で結婚した。昭和初頭は不景気のどん底であったが、「産めよ、ふや
せよ」と世論が湧き立っていたころであった。わたしたちもその波に乗って、出産計画を
立てた。漢籍に「恭・寛・信・敏・敬老仁之端也」とあるのによって、五人の子をなし、
それぞれに、この五字を名づけて、五人力を合わせて、仁徳を実現させたいなどと、とん
でもない夢を見ていた。
 やがて、長女が生まれると敏子、続いて長男が生まれると恭一と名づけた。ところが、
そのころから、小学校教員の安月給では、とても五人の子どもの教育はできそうもない。
そう思うと、急に不安がつのってきた。そこで、まず五人の出産計画を破棄することにし
た。
 それと同時に、残念ながら月給の高い中等学校に転任したいと思うようになった。丁度
その折に、横須賀市の教育課長の紹介で、この元街商業専修青年学校に転任することにな
った。思い切った決断であった。
                                           134
   元街公園で

 学校は、横浜の丘の上、外人墓地近くにあった。しかも夜間の授業であるから、田浦駅
から国電で横浜駅へ、それから桜木町駅で降り、歩いて元街公園内を横切って学校へ、そ
して九時まで授業をして帰る。帰宅は十一時近くであった。
 そんなわけで、学校で生徒と話し合ったり、心を通わすことは困難であった。一か月も
たつと、生徒の多くが、元街公園の中を通って登校することがわかった。わたしは早く家
を出て、元街公園のベンチに腰かけて、生徒の来るのを待っていた。
 正徒たちは、三人、五人、十人と、日増しに多く集まって、たちまち楽しい語らいが始
まった。小学生には見えなかった精気が彼らの間にはみなぎっていた。多くは、横浜だけ
に、輸出入産業にたずさわっている者が多かった。四年生にもなると、みんな自分を持っ
ていて、業界にも精しく、海外事情にも通じている者が多かった。その点わたしの方が、
教えられる面が多かった。そこでは師弟関係を越えて、むしろ同僚であった。
 学校ならぬ元街公園が、自由に素直に心を通わす場になっていた。先生、どこどこへ行
きましょう。先生、どこそこへ連れて行って下さいとかいう話し合いの場でもあった。
 中には、輸出する子どものおもちゃを、わたしの子どもに持ってきてくれるもの、これ
はわたしが作ったものなどと言って、わたしに文鎮をプレゼントするものもいて、自分を
信じ、仕事に誇りを持っている頼もしい青年もいた。そんな生徒といることが、楽しくも   135
あり、誇らしくもあった。

   日蓮上人鎌倉遺跡めぐり

 生徒たちが相談して、休みの幾日かを使って、鎌倉の日蓮上人の遺跡めぐりを計画して
わたしに案内して欲しいと言ってきた。人間日蓮はわたしの少年時代からの憧れの人物で
あり、鎌倉の寺々や遺跡めぐりも、繰り返してきたので快く引き受けることにした。
 日蓮が佐渡流罪にあった祈、引き回される日蓮に、老婆がぼたもちを差し上げた所とい
う「ぼたもち寺」の由来を知って感じ入ったり、巌窟にこもって、立正安国論を書いたと
いう岩穴のある安国論寺を訪ね、安国論に述べられている「吾日本国の柱とならん、大船
とならん」と、豪語した日蓮の心意気を知った時には、皆感動に燃えたりした。
やはり青年たちである。
 妙本寺を訪ねたのは、ちょうど寺の虫干しの時であった。日蓮ややさしい日朗の描いた
量陀羅や仏舎利などの寺宝をたくさん見て感慨を深くしたようであった。特に、日蓮が辻
説法をした跡を訪ねた時は、衆人の投石、罵声に臆せず、信念を吐露した姿を想い起こし
て、感に堪えなかった青年たちであった。
 夜おそくまで、学校で学ぶのもさることながら、校外でのこうした行動は、確かに青年

たちを、体力的にも精神的にも伸び伸びと育てる上に効果的だったと思う。         136

   文集を作ろう

一年から四年まで、総員数十名の小さな夜学校である。一学期の終わりごろには、もうお
互いに心が通い合うようになっていた。国情を反映してか、生徒間にも大同団結の気運が
起こり始めていた。四年生に手塚規矩夫という覇気に富んだ青年がいた。彼の骨折りで、
元商国語の会が結成された。そして、会月一同の心を結集して文集を作ろうと、会員から、
詩・短歌・俳句・エッセイを集めて、わたしに編集して欲しいと言ってきた。文集「草笛」
がそれである。
 国語の会が結成されて、具体的にどんな活動をしたのか記憶にない。生活と文学とか、
働く青年と文学活動などについて論じ合ったように思う。ただ文集『草笛』だけは手許に
残されているので、二、三の作品を抄記してみる。
      信念の力                 三年  平田稔
 私は、あらゆる記憶を通じて、嘗て「恩讐の彼方に』といふ小説を読んだ時位異様な感
激に浸ったことはない。
 冬の深い夜だった。私は市九即の一生を夢に描いて、どんなに敬度な気持ちで、深刻な
心で、偉大な彼の生涯を凝視したことだろう。彼の尊厳なる生涯は、今私の記憶の中に生
きている。そして、彼が岩窟の中で打ち下ろした聖の昔は、感激の歌を奏でながら、私の   137
霊の中で力強く反響して居る。
 人生の光明と勝利は、真に志を立てる事によって始まる。儒夫を奮い立たしむるもの、
其は実に人間精神の本然に目覚めた信念の力ではないか。それは或時代にのみ限られた真
理ではない。市九郎の時代に於いても、塙保己一の時代に於いても、野口英世博士を生み
出した現代に於いても、一貫せる真理である。
 二十世紀の物質文明は、此如き精神を黙殺して居るかのようである。併し現代の人々に、
赫々たる栄誉と勝利を与えるものは、単なる知識や才能ではない。実に儒夫をして立たし
める信念の力である。
 吾人の理想は、人生行路の大なる目標である。人に賢愚の差はあっても、目標に対する
信念の強さは、吾人の一生を支配し、興廃を定める精神は実に肉体以上の偉大なる仕事を
成就している。
 一人の乞食坊主の痔腕が、前人未到の大事業を完結すると何人が夢想し得たろう。「最
大の決心は、最上の聴明である」と。げに偉大なる信念は偉大なる実効を伴うものである。
野口博士の追憶は、あらゆる青年の心に深く尊敬と敬慕の念を奮い起さしめている。併し
その偉大なる行跡は、彼の天才よりも、寧ろ並々ならぬ努力と信念に起因して居ることを
忘れてはならない。
 眼を閉じて静かに吾人の前途を凝視せよ。人生の鴫野には、燦々たる理想が闇夜の灯の   138
如く生々と光り輝いている。吾人の前途に光明を投ずるものは誰だ。理想は私に「信念
だ」と教えて呉れる。君の信念は、あらゆる人生の苦悩を飛び越え、障害の巌窟を穿って
理想の世界に君を導くだろう。
     波止場の朝                 一年  横尾省吾
   鴎がゆっくりと曙の空を斜断すると
   旭日にキラキラ反射するオイルの浮いた海面
   起重機が思い出したかのように
   急テンポの歌を唄う
   自服の船員と黒服の労働者−
   ドラとそして交錯する船舶−
   聖らかな生活の絵画だ
   朝もやのはれたメリケン波止場は……
     日曜の朝                  四年  相原二郎
   日曜の朝はのどけし新開のインクのかをり懐しみかぐ
   過ぎし日のこと懐しくふとなりぬ久々に友に手紙書きつつ
     照土曜                   四年  志村慶造
   雨はしき草の菓末や照土曜                            139
   友を呼ぶ声こだますや五月暗
   手折らんとさしのばす手や山つつじ
   日当りの緑に老母の針進む
     早起                    一年  長谷川峯雄
 ふと眼がさめた。何時もの通り五時ごろかと思ったら、今朝は五時少し前だ。親類の牛
乳屋の兄さんが出征したので、今では牛乳配達だ。電車通りへ出ると真暗だ。何となく淋
しい。淋しいというより気味が悪い。木などもじっと見つめて居ると解るが、気のせいか
人に見える。荷を積んで愈々出発だ。かたと何か音がしてもはっとする。僕は地震子の臆
病者だ。残念だが仕方がない。夜も中々明けて呉れない。これから益々寒くなる。然も之
も銃後の護りと思ってしっかりやっている。
 手塚君は、「編輯後記」に、次のように書いている。
 事変三周年の新春!! 皇軍の進む所に赫々たる武勲は輝き、長期建設の礎は刻々に固め
られて行く。緊張の中にも大きな喜びに溢るる時、私達待望の文集「草笛」をお手もとに
届け得られたということは、誠に重ねての喜びと考える次第であります。
 国語の会会員が、真剣に綴った文章、一句一句が、文集の全面にみなぎって、私達の前
途には、益々開け行くものがあるように感ずるものであります。
 今後とも大いに頑張って下さる事を、衷心より望んで止みません。            140
       *
 なおこの文集の発行については、多大なるお骨折りを戴きました中沢先生並びに上級生
の方々に心からお礼申上げます。
       *
 第一号より第二号というように生れたばかりの「草笛」を、みんなでかわいがって、段
々良い文集になりますようお互いに力を出し合って下さい。そして立派な「草笛」にしよ
うではありませんか。では又第二号で。昭和十四年一月手塚規矩夫
 なおこの文集には、わたしも巻頭言と、短歌「中禅寺湖」九首を寄せている。

   転任・出向事情

 当時は小学校でも、中等学校でも、覇気のある先生方は、二年か三年で転任する傾向が
あった。転任するたびに俸給があがったからであった。特に願外へ出向する場合には、履
歴書と一緒に「調査資料」を、転任を希望する学校に提出するのが例であった。
 わたしは、元街商業専修青年学校に転任して、僅か一年足らずであったが、母の希望も
あり、郷里へ帰って教鞭を取ろうと思うようになった。そこで転任を希望する学校へ履歴
書と、「調査資料」を送った。その「調査資料」の写しが保管されている。今となっては、
少しおもはゆいが、次に記してみる。当時の転任事情を知る参考になろう。         141


     調査資料         中澤政雄

  一 賞罰

一 自大正十年   群馬県立工業学校ニ於テ成績優秀・操行善良ノ故ヲ以テ特待生トナ
  至大正十四年  リ四ヶ年間月謝ヲ免除セラル
一 大正十三年
          群馬県立工業学校ニ於テ五ヶ年皆勤賞ヲ受ク
  三月二十日

  二 研究
一 上代ノ思想及ビ道徳
    内容 第一章 体系篇  第二章 対象篇  第三章 社会窟  第四章 思
       想篇(1神の語源・語義 2神祇観ノ構成 3神祇観ノ変遷 4外来思
       想の影響 5結語)  第五章 道徳篇(1夫婦道ニッイテ 2発生期
       ニ於ケル武士道ニッイテ 3忠君思想ニ就イテ 4日本道徳ノ渕源ニ就
       イテ)  補遺仏教思想研究資料
    コノ研究ハ二ヶ年余ヲ費シ、ソノ間県・市主催ノ研究会ニ於テ二回之ヲ発表シ
    タリ
一 横須賀市方言集                                  142
    内容 一 方言集 二 音韻研究(子音変化・母音変化・撥音化・促音化)
    三 語法研究(動詞・形容詞・其他) 四 接辞の研究
    コノ研究ハ横須賀市教育委員会ノ依託こヨリ行ヒタルモノニシテ、ソノ結果ハ
    同会総会ノ席上二於テ之ヲ発表シタリ
一 訓育ノ研究 
    内容 一 訓育ノ本質 二  訓育ト郷土  三 訓育ト日本精神  四 訓
    育ト二宮精神  五 訓育原理(1自律ノ原理 2相関ノ原理 3個性ノ原理
    4相愛ノ原理 5労作ノ原理)  六 訓育実践(1家庭生活訓育 2学校生
    活訓育 3社会・国家生活訓育)
    コノ研究ハ神奈川県全県下二発表セリ
一 其 他

    1 女子師範学校二於ケル方言研究二就イテ (武相教育・連載)
    2 自治生活訓育ト学校常会        (武相教育)
    3 二宮尊徳先生             (報徳)
    4 国民精神総動員ト青年学校訓育     (青年と教育)
     三 教育態度

    教育態度こ就イテハ之ヲ述ベルコトヲ省略シ雑誌『修身教育二一掲載サレタル私   143
    ノ人物紹介ノ後二附記セラレタル同誌主筆松本浩記先生ノ左ノ一文ヲ抄録ス
       中沢君ヲ語ル          松本浩記
   (前略)中沢政雄君ハ同校(横須賀市船越小学校)ノ中堅トシテ、特二熱烈ナル研
    究ト深刻ナル研究ノ道ノ行者トシテ、同校二重キヲナシテイル人デアル。中沢君
    ノ授業ヲ見ルト、ソレガ一時的ナ間二合セヤ、イイカゲンナゴマカシヲ許サヌ根
    強イ努力ノ跡ガ窺ハレル。全ク骨ヲ削り血デ作り上ゲタヨウナ辛苦ト慈愛ガ児童
    ノ生活ソノモノ二二ジミ出テイルノデアル。
     子供ト共二生キル純愛ノ瞳が観ル者ノ心二迄強ク響キ渡ルコトヲ感ズルノデア
    ル。私ハ中沢君二依ッテ本当二教育ソノモノ二生キル現代ノペスタロッチヲ見出
    シ得タヨウナ喜ビヲ感ジサセラレタモノデアル。
      四崇拝スル人物ト生活信念
    力ト信念ニ生キタ日蓮上人、純真無碍ノ良寛サマハ私ノ最モ崇拝スル人物デアル。
    至誠一貫、敢為力行ハ私ノ生活信条デアル
      五趣味
   短歌・読書
                                           144
     4 太平洋戦争始まる(群馬県立伊勢崎商業学校・三十二歳)

   郷里へ戻ったが

 わたしは十九歳、肋膜炎を病んで、神奈川県茅ヶ崎へ転地してから、三十二歳漸く郷里
へ戻って教鞭をとるようになった。伊勢崎商業学校への転任は決まったが、なかなか出向
辞令が出なかった。
 校長は待ち切れず、横浜へ出てきて、わたしの勤務状況などを聞き乱したらしい。赴任
して校長に会った祈、「職員会議を波立てないようにして下さい。」というのが、第一声
であった。気の小さい校長であった。
 わたしは背広を着、中折れ帽をかぶって出勤した。早速校長から、群馬県では教員の制
服は決まっている。帽子は、国鉄職員がかぶっているような学帽型の帽子、洋服は海軍士
官が着ているのと同じ詰め襟、フックの黒の服である。早速制服に着替えるように言われ
た。
 わたしは、無言のままいつになっても着替えようとしなかったから、絶えず校長に注意
された。服装まで強制されるのがいやだったし、特に学校教師が率先して、このようなこ
とに範を示すのがたまらなくいやだったのであった。                   145

   朝礼は分列式

 当時はすでに国家主義・軍国主義の教育が行われ、中等学校・高等学校には陸軍将校が
配属されて軍隊教育が行われていた。だから朝礼では分列式が行われた。
 学級担任は中隊長で生徒を指揮することになっていた。わたしは中隊長であった。中折
れをかぶり、背広を着て、腰には長いサーベルをさげていた。行進が始まると、先頭に立
って、サーベルを振りかざし、大きな声で「かしらー右!」と号令をかける。
生徒は一斉に壇上の校長に向けて頭右をする。そんなわたしの姿は、まさにポンチ絵・漫
画であった。
 だからその度に、配属将校から叱られた。しかし、大きな声で号令をかけるから、生徒
は引き締まる。その点は配属将校も叱りようがなかったようである。
 校長には絶えず注意され、配属将校には叱られるので、翌年の一月には制服制帽で出勤
するようにした。随分勇気がいった。

   軍隊教育一点張り

 この時代は、明けても暮れても軍隊教育一点張りであった。中等学校では、校長と並ん
                                           146


で配属将校が存在し、強力な権力を持っていた。教練の時間は軍隊教育そのものであっ    147
た。
 五年生は、配属将校に引率されて、高崎の十五連隊で、三泊四日の営内教育を受けた。
生活様式も、起居動作も、食事もすべて、軍人と同じ教育を受けた。
 わたしは、健康を理由にして、この営内教育には参加せず、最後の一日だけ見学した。
軍隊教育に余り熱心でなかったので、よく配属将校に叱られた。
 一般に生徒たちの日常生活は、厳重に規制され、体罰によって保たれていたように思う。
 また、生徒たちは、榛名山麓の相馬が原で、野外演習をした。この時は全職員参加で
あった。群馬県南部で行われた軍隊の演習では、夜間演習を全職員見学した。しかし、大
倉精神文化研究所で行われた「みそぎ」の行には出席を拒否した。
 そんなわけで、生徒の日常生活は、教練・行軍等に明け暮れて、わたしたちの関わる面
はほとんどなく、ただ手をこまねいているばかりであった。

   生徒の作文と方言研究

 わたしが生徒たちと親しく接する機会は国語の時間以外にはほとんどなかった。だから
言葉によるコミュニケーションだけであった。生徒はよく作文・創作を書いた。わたしは
それを読んで、一人一人の生徒を理解し認識した。そして、よくその作文を読んでやった。
 そのうちに、わたしに語りかける作文を、赤裸々に書く生徒が増えてきた。わたしはそ   148
れを快く受けて紹介した。国語教師のみが常時受けることのできる冥利であった。
 中に「わたしの村自慢」を書いた生徒がいた。それが機縁になって、生徒たちの助力を
得、村々を回って方言を調べた。特に明治の終わりごろ、全国の村々で作った「郷土誌」
の中の方言を採録したり、現在の村々の方言を採集したりして、語彙・音韻・文型・文法
などを研究し『佐波方言の研究しをまとめた。
 今その一部が前橋図書館にあって、群馬方言研究の大事な資料になっているという。

   梅根悟校長に会う

 わたしは、伊勢崎商業へ転任してからも、「社会的修身教育』誌に依って、社会的修身
教育の研究を進めていたし、「コトバ」誌に依っても、言語の研究に精進していた。たま
たま船越小学校時代に読んだ梅根悟氏の著作『訓育論』に、大いに啓発されて感銘を深く
していた。
 その梅根氏が、隣の埼玉県本庄中学校に転じて来られたことを知った。わたしは早速本
庄中学校を訪ねて、梅根校長の教えを受けることにした。話が教育論になると、ていねい
に詳細に持論を話していただいた。わたしも実践指導を通して得た事例をお話した。やは
り先生にお目にかかって、感慨深いものがあった。
                                           149
   太平洋戦争始まる

昭和十六年十二月八日、海軍の真珠湾奇襲攻撃に、歓呼の声挙がる。
                                           150
     5 戦争中の教育(埼玉県川口中学校二二十五歳)

埼玉県川口中学校誕生

 アメリカを相手に戦争が始まったというのに、埼玉県川口中学校は誕生した。校長は埼
玉県本庄中学校長梅根悟氏で、氏の教育理想の実践を目ざして経営した学校であった。ま
だ校舎は建設されず、荒川河畔にあった川口第六小学校に間借りしていた。そのころわた
しは、梅根校長に乞われて、伊勢崎商業からこの学校へ転任して来た。確か、その赴任の
朝だったと思う。校庭に生徒たちが並んで、式が始まろうとした時、東京の空にB29が
爆音をとどろかせて飛来したのを確かに目にした。
 朝礼は荒川の河川敷の運動場で行っていた。ある寒い朝であった。一人の生徒が、何を
したのか、罰として運動場を駈けさせられていた。それを見つけた壇上の梅根校長は、大
きな声で、「その生徒、走るのをやめさせろ。走らせれば、返って体がほかほか温かくな
る。それでは罰にならない。上着をぬがせてそこへ立たせて置け。」と言われた。わたし
は、これが梅根式教育の一端かと思った。
 一年に入学して来た生徒は、全員教師と共に町の集会所に合宿させ、生活の仕方、学習
の仕方を徹底的に指導してから、学校生活を始めさせた。ここにも梅根式教育の厳しさが   151
あった。
 やがて、川口の北四、五キロの鳩ヶ谷の丘の上に、仮り校舎が出来上がると、生徒たち
は川口から徒歩で通学した。自転車通学は許されなかった。仮り校舎は、まことに粗末な
ものであったが、驚いたことに、給食設備は整い、専任の調理士がいて、早速給食が始ま
った。この戦争中によくもと思った。新入生を一週間合宿させて、食事の訓練を厳しくし
た意味が初めてよく分かった。
 敗戦後、食糧の危機から、小学校で給食が行われるようになったが、川口中学校の給食
がその先駆となったのであろう。
 こうして、生活の指導も、あとで述べるが学習の指導も、まことに厳しく行われ、軍国
主義の教育の理想を思わせる教育が、軌道に乗り出したように思えた。

   水訓万歳

 ひ弱な生徒の訓練は、頑健な体、質実剛健な精神、一糸乱れぬ集団行動の教育をめざし
て行った。それが水訓である。水訓と言うのは、「水曜日訓練」を略した言い方で、毎週
水曜日の午後、行軍を中心として行った訓練である。生徒も教師もゲートルを巻いた軽装
で、荒川の土手を東京へ向かって行進したり、蕨や浦和や近郊に向かって行軍したりした。
一時間に四キロの割り合いで行軍する四キロ行軍、一時間に六キロの割り合いで歩く六キ   152
ロ行軍や時に小走りに走る行軍などを行った。六キロ行軍や小走りに走る行軍は、なかな
か大変で、生徒とともに、溜め息をつくことも多かった。
 農作業も水訓として行われた。蕨町の郊外に、どのくらいの広さだったか記憶にないが、
広い学校の農園があった。そこで、じゃがいも、さつまいも、ねぎなどを作った。給食の
材料になった。そこまで行軍して行って、一部の生徒が、憤れない手つきで作業をした。
みんな一所懸命であった。わたしは、少年時代に農作業をした経験があったので、昔を思
い出しながらの楽しい作業であった。

   防空壕のトンネル掘り

 校庭の一隅に、片面を切り取った小さな丘があった。この丘を掘ってトンネルを造り、
生徒全員が避難できる防空壕を造ることになった。シャベル使いを特技にしていたわたし
が、設計も掘さくの指揮もみんな任されていた。綿密な計画を立て、丘の両側から掘り進
んだ。丘は粘土層なので容易に掘り進んだが、果たしてうまく通じるか不安もあった。
 わたしは、この作業を通して、生徒たちにシャベルを使うこつを教えた。シャベルを上
手に使うのは力ではなくて、両手と足と腰の調和の取れた使い方であることを体験させた。
B25の爆音を聞きながらの作業で、生徒は実によく働いた。トンネルはごく僅かのく
いちがいで開通した。生徒全員が避難して安心できる、大きなトンネルに防空壕が出来上   153
がってほっとした。

   動労動員

 川口は鋳物工場の多い所であるが、特に軍需産業を担当している工場に生徒たちは動員
された。動員先は荒川河畔の池貝鉄工場であった。何の部品を製作しているのかわからな
かったけれど、朝早くから生徒を連れていった。
工場長がしっかりした人で、よく生徒を使いこなしてくれた。わたしは工場の中を回って、
生徒たちがけがをしないように、危険な作業に手を出さないように注意して歩いた。警戒
警報が鳴ると、いち早く生徒を工場前の荒川の河川敷に避難させた。そこにはいくつかの
防空壕が掘ってあった。生徒たちはまだ空襲のこわ増を知らないので、恐怖心を持ってい
ない。だから水訓で鍛える一糸乱れぬ集団行動などと言うわけにはいかない。その度に工
場長から厳しく指導された。
 この工場では、木型から鋳型を造り、それから鋳物を造る一連の作業を行っていた。真
っ赤に溶けた鉄の湯を、次々と鋳型に注いでいく仕事は、見ていても、むずかしくもあり、
危険でもあるように思った。
こうして、一所懸命働いている工員たちを見ると、まさに一億「心の姿であると思った。
                                           154
   夜間行軍

 生徒の持久力・忍耐力を養い、剛健な精神に培うための行事として、大宮市内の氷川神
社往復の夜間行軍を実施した。たしか一月一日の皇居前の新年祝賀式を行った前だったと
思う。何でも寒い夜だった。生徒は夕方学校に集合し、どこをどう歩いたか全く記憶にな
いが、蕨から浦和へ出て大宮まで、四キロ行軍だったと思う。夜が明けたころ、漸く重い
足を引きずって、氷川神社へたどりついた時は、もうみんな疲れきっていた。
 そこで、しばらく休んでから帰路に着いた。わたしは、自転車をころがして、しんがり
をつとめた。後れがちな生徒を励まし励まししながら歩いた。こんな厳しい夜間行軍は、
初めてであった。

   新年祝賀式

 戦前は一月一日にはみんな登校し、「年の初め」の式歌を歌い、校長が教育勅語を奉読
し、式辞を述べるという厳粛なものであった。
ところが、川口中学校では、戦争中だというのに、十二月三十一日の夜、全職員・生徒が
学校を出発し、夜通し歩いて、明け方近く皇居前の広場に到着した。新年の祝賀式を皇居
前で行うためである。これも梅根校長の発案である。
 やがて、太陽の登るのを待って、二重橋前に整列し、新年の祝賀式を行った。天皇に対   155
して枕詞を述べ、国歌を歌い、校長の話があり、万歳を三唱して式は終わった。
 生徒の士気を鼓舞し、心から戦勝を念じ、新年を祝うという精神からであった。
 式が終わると、しばらく休んで帰途に着いた。往路と打って変わって、帰路は疲れと寒
さで、意気阻喪したかに見えた。すると、北区の飛鳥山公園あたりから、梅根校長が先頭
に立って掛け声をかけながら小走りに走り出した。思い出すだけでも心の踊る新年視賀式
であった。

   生活指導

 (1)食事と学習
 一年生は入学すると、前に述べた通り、職員と共に合宿して、厳しい日常の生活訓練を
受けた。食事中昔を立ててはいけない。うどんを食べる時ですら、すする音を立てるな。
食器の昔を立てるな。立ったり歩いたりするな。しゃべるななどと厳しくしつける。食前
食後のあいさつを忘れるななど食事の作法は言うまでもない。だから給食も整然と、素早
く行われる。
 学習訓練も一年生は合宿の時に厳しくしつけられた。夜は二時間必ず勉強せよ、予習・
復習を忘れるな、ノートの取り方、宿題の処理の仕方まで指導する。各教科ごとに必要な
学習法の訓練をする。                                 156
 (2)服装検査
 毎朝服装検査をする。体操の時間にもする。服装については、生徒手帳の中に厳しく規
定してある。それに反したり、規定以外の服装をしたり、また、服やズボンのボタンを掛
け忘れたりすると、罰として運動場を走って回らせる。こんなことがあった。
 わたしの担任の生徒に本橋というのがいた。ある時、彼の父親が、学校へ訪ねて来て、
わたしに相談があると言う。開いてみると、「このごろ、せがれが、毎晩のように、ぐっ
すり寝ていたかと思うと、むっくり床に起き上がり、両手で前の方を押さえ、ごめんなさ
い、ごめんなさいと言う。そして庭へ飛び出していって、ぐるぐる二、三回まわったかと
思うと帰って来て、すぐぐっすり寝てしまう。どうしたらいいでしょう。」と、いうこと
であった。
 わたしは話を聞いてすぐ分かった。彼はよくズボンの前ボタンを掛けるのを忘れている。
それを体操の服装検査の時、先生に見つかって叱られる。そして運動場を走らされる。そ
れが度重なったのであろう。彼は生来やさしく気が小さいからこの仕打ちが強烈に感じら
れ、ついに夢遊病にかかってしまったのである。それほど厳しかったしつけであった。
 わたしは丁寧に話してあげた上、彼の生活指導に気を配った。間もなく心配は解消した
と父親からの知らせがあった。                             157
 (3)忘れ物
 生徒はよく忘れ物をする。教科書を忘れ、ノートを忘れ、提出物を忘れる。そんな時に
は、「放課後家へ帰って持って来なさい」と申し渡すだけで、授業はそのまま受けさせる。
 生徒は放課後家へ帰って、忘れ物を持って来るのだから、もう日は暮れている。忘れ物
を待っていた先生に見せて、記録してもらい、「ご苦労さま」の声を背にして帰っていく。
そこで、わたしたちは、どの生徒も、もう決して忘れ物をしないと覚悟することを願って、
無事に家に帰り着くことを祈っている。

   不適応生徒

 わたしのクラスにSという生徒がいた。浦和駅前の写真館の長男であった。物静かで、
口数の少ない生徒であった。一学期の中頃から欠席することが多くなった。浦和から通学
する生徒は多かったが、特に親しい友達はいなかった。と言って特にいじめられるという
こともなかった。けれども友達の中に入って談笑したり行動を共にすることもなかった。
 要するに、おとなしく消極的だったから、集団生活に適応できないで、次第に疎外感を
持つようになったのである。それにつれて欠席も次第に多くなっていったのである。
 本人を呼んでいろいろ話を聞いたり話したりして、励ましたり諭したりした。すると、
比較的明るい表情で登校するがまた休んでしまう。                    158
こうして、毎週土曜日には、夕方浦和の家を訪ね、両親と共に本人に会って四方山話をし
て登校を促してきた。その度に一日二日は登校するがすぐまた休んでしまう。そんなこと
が三月まで続いた。しかし、わたしは、三月前橋中学校へ転任してしまった。
 風の便りに、彼は浦和商業学校に転校したと聞いて、よかったと思った。それから何年
後になるだろう。わたしは上京し、神代高校に勤めていたが、ある日職員室に小牧バレー
団のポスターが張られた。見ると、Sの写真と共に姓名がのっている。同僚に聞いてみる
と、彼は小牧バレー団の幹部だという。あの彼が、立派に成人したかと思うと、ひそかに
喜びを感じると共に、よかった、よかったとしみじみ思った。

   能力別編成による集団学習指導

 太平洋戦争が始まると、もう教育指導のまともな研究など、どこでも行われなくなった。
戦時体制のもとで、軍国主義・勤労動員などに追われて、教育研究どころではなかった。
 そうした中で、それに対応しながら、川口中学校だけは、純粋な教育指導研究を行って
いた。しかも、それはこれまで研究実践されたことのない能力別学習指導の研究であった。
 生徒たちの間にはかなりの能力差がある。その能力の差に応じた教育をしなければなら
ないというので、普通に学級編成をした後、英語・数学・国語の三教科の学習時に限って、  159
学級を解体し、能力別にA・B・Cの三学習集団を編成して指導した。
 その順序次第は次のようであった。英語がAの集団の指導をする時には、数学はBの集
団を、国語はCの集団を指導する。英語がBの集団を指導する時間には、数学はCの集団
を、国語はAの集団をそれぞれ指導する。英語がCの集団を指導する時間には、数学はA
の集団を」国語はBの集団をそれぞれ指導する。こうして、三時間で、各教科ともA・B
・Cの三集団の能力別学習指導を行うことになる。
 学期末ごとにテストして、集団の組み啓をする。だから生徒たちはよく勉強した。各教
科のカリキュラムは担当の教師の自由に任されていた。こんな新しい有効な研究が戦時下
に行われていたのである。各教科の学習指導法の研究会も随時行って改善に努力していた。

   国語科の研究

 当時中学校の国語は、読解・作文・文法の三科目に分かれていた。それぞれに読解教科
書、作文教科書、文法教科書があって、自由に選択採用していた。
 (1)漢字の学習
 読解学習の指導では、通読・精読・味読というのが一般に行われていた読解の過程であ
った。                                        160
生徒は特に漢字が書けないので、その練習を強調した。漢字練習帳を二冊用意し、一冊に
毎週教科書の中の漢字を選んで五百字書いて土曜日に提出する。翌週わたしが、それを丁
寧に検閲する。その間に生徒は別のノートに漢字を五百字書いて、検閲ずみの練習帳と引
き換えに提出する。毎週五百字を書く生徒も、それを検閲するわたしも、大変な苦労であ
った。それにしても、生徒の書く作文の中に漢字を使用することが多くなったということ
はなかったように思う。しかし長い間には漢字の使用率は増したに違いない。
 (2)文法の学習
 文法の教科書は、文部省編修の口語文法を一年で、文語文法を二年で使っていた。橋本
進吾博士の、いわゆる橋本文法による教科書であった。この教科書を二通りの使い方をし
て文法の学習を、従来の文法知識を暗記させる方法を改善しようと思った。
 一つは、文法教科書を読んで得た知識を裏付ける文法事実を採集し整理する方法であっ
た。これは演繹的方法だから比較的容易に行われた。
 他の一つの方法は、読解教材の中から文法事実を採集する。例えば動詞や形容詞の活用
形を採集して整理し、教科書の説明・解説の袈付けをして、その法則を発見させる方法で
ある。この方法は帰納的方法であるから、積極的な学習を促したように思う。
 このように、文法知識の暗記を強いられるのでなく、生徒自身が、文法を発見し構成す
るのであるから、文法の時間を待ちかねている様子であった。
こうして、文法学習を楽しいものにした。                        161
 (3)はっきりものを言う
 生徒たちは、はっきりしたもの言いがなかなか出来ない。つい消極的になる。そこで
「はっきりものを言う」「はっきり意思表示をしよう」を合い言葉として励行した。
 そこで、職員室にいる先生に用事がある時は、「一年一組の大田一郎、市川先生に用事
があって参りました」というように、戸口に立って、大きなはっきりした声で言う。する
と、先生が「よし、入れ」と言う。そこで職員室へ入って先生に会う。これを厳しく励行
した。
 これを契機に生徒たちの日常のもの言いがはっきりし、確かな意思表示がだんだんでき
るようになっていった。はっきりとものを言わないと生活に適応できないからであった。
漢字の練習が成功しなかったのは、作文や日常の書く生活と直結していなかったからであ
ろう。

   海軍兵学櫻入学試験行

 兵学校の試験を受けたいと希望した者が四人いた。その準備・指導する仕事はわたしが
担当していた。試験があと二、三か月に近づいたころ、梅根校長の発案で、校長の私宅に
わたしたち五人合宿して試験勉強をすることになった。
 毎晩十一時ごろまで勉強した。参考書や問題集を中心に勉強したがなかなか思うように
はいかなかった。                                   162
 それでもみんな自信をもって江田島へ行った。まず兵学校へ行ってみた。控室らしい所
で、大きな生徒たちが、みんな幼児向けの絵本や絵物語を、熱心に読んでいるのには驚い
た。わたしは秀才たちの純真な精神‥心を観た。こうした精神に培うことこそ本当の教育
なのであろう。
 試験はやはりむずかしかった。終わって名古屋まで帰ってくると、濃尾大地震で東海道
線は不通である。中央線で長野へ出て川口へ帰るより方法はないという。駅長に頼んで構
内で飯盆でご飯をたいて食事の用意をし、そこで一夜を明かした。
 翌日中央線に乗って長野から川口へ帰った。さんざんな受験行であった。合宿勉強の効
もなく残念ながら四人とも不合格であった。あの時の一部始終が今でもはっきり思い出さ
れる。

   転任の決意

 わたしは学校から少し離れた所に下宿して、そこから毎日通勤していた。土曜日になる
と、夕方母のいる伊勢崎のわが家に帰り、日曜日の一日をそこで過ごし、月曜日の朝早く
暗いうちに、新伊勢崎駅から東武電車に乗って、草加駅で降り、そこから自転車で学校へ
行く。そして、生徒と共に厳しい教育行を繰り返していた。
                                           163

 わたしは、梅根校長の教育施策に共鳴し乞われるままに、川口中学校へ転任してきた。   164
しかし、戦争が激しくなるにつれ、教育も益々厳しく、軍国主義の色彩をおび、生徒の生
活は規制され、自由も束縛されていた。わたしは一年もたたないうちに、梅根校長の教育
施策に不安を感じ始め、転任しょうと思うようになっていた。
 梅根校長の教育的発想はすばらしく、いつも進歩性と改革性が裏にひそんでいた。しか
し、それが国家主義・軍国主義の教育に極端に向かっていった。わたしは、ひそかにそれ
を恐れていた。
      *
 やがて敗戦の憂き目をみると、梅根校長は川口の助役になり、『新教育への道』を出版
し、「国民学校論」を展開していった。機を見るに敏といい、変わり身の早さといい人々
をあっと言わせた。やがて、国語・算数を用具教科とし、社会科を中核とするいわゆるコ
アカリキュラムの推進者・指導者として教育界に君臨した。その上、いつの間にか日教組
の指導講師となっていた。
 わたしが前橋高校にいた時、群馬師範でコアカリキュラムの研究会を開いた祈、講師と
して前橋へ来られたので久しぶりにお目にかかったが、もうわたしの師ではなかった。
                                           165
     6 戦中戦後(群馬県立前橋中学校二二十七歳)

   前橋中学校へ転任

 三月になったので、履歴書と例の調査資料を、群馬県の学務課長宛に数通送った。する
とすぐ県立伊勢崎高等女学校から、採用したいという手紙が来た。しかし、女学校なので
お断りした。続いて高崎中学校から採用したいが、音楽も担当して欲しいということであ
った。音楽は担当出来ないとお断りすると、折り返し、音楽と言っても教えなくてもいい、
式日に「君が代」だけ弾いてもらうだけであると言って来たが、これもお断りした。する
とすぐまた前橋中学校から採用したいという手紙が来た。前橋中学校は、憧れていた中学
校なので、一も二もなく承諾した。
 学校長が会いたいと言うので学校を訪ねた。学校は前橋駅から西へ農道を歩いて十分、
天皇のご真影を奉安する立派な奉安殿が建っていた。校長から戦中の教育方針や校風・勤
労動員の状況などを聞いてから、県の学務課長を訪ねた。勤務条件を交渉するためであっ
た。課長は県の財政が逼迫しているので、給料は当分俸にして欲しいということであった。
当時は、一般に転任する場合は、一級俸昇給するのが例であった。当分俸というのは、
当分の間五円の昇給でいて欲しいというのである。わたしは結構ですと承知して帰った。   166
あとは県の発令を待つばかりであった。
 この学校は、開校以来何十回となく毎年ストライキを続けている学校だと言うが、また
県下の秀才が集まっている学校でもあった。新任式には、簡単なあいさつをしたが、驚い
たことに、わたしの渾名をささやく声が、あちこちから聞こえて来た。わたしより先に渾
名が転任していたのであった。

採農の勤労動員

二学期が始まると、間もなく一年生の勤労動員が始まった。新田郡の農村に向けての援農
動員であった。生徒たちは五、六人ずつ分かれて、農家に泊まり込んだ。わたしも相の世
話役の家に泊めてもらった。
 その夜、栢泊先からそれぞれ責任者に集まってもらって、待遇・食事・農作業などにつ
いて不公平のないように、また慣れない生徒にけがのないように協定してもらった。翌日
からわたしは、生徒たちの作業の現場を尋ね回って、作業状況や生徒の健康状況を見て回
りながら、農家に適切に指導してもらうように頼んで回った。
 ところがすぐにわたしに非錐の矢が向けられた。わたしは帽子をかぶっていたが、長髪
であった。当時は男性はみな坊主刈りであったから、先生は長髪だ。国策に従わない非国
民だというのである。非国民の先生が、生徒を連れて援農に来るのはよろしくないと言う   167
のである。
 しかしわたしは意に介することもなく、農作業の現場を回って、生徒の作業状況を見た
り、生徒の声を聞いたりした。ところが、生徒たちは口を揃えて、農家によって、作業も
食事も不公平だと言う。生徒たちは、農作業など経験したことがないから、思うように出
来ないし仕事もはかどらない。また、農家にしてみれば、こんな簡単な事が出来ないとい
う不満もある。そこで、それなりの対応の仕方を教えて回った。
 そして、農家に対しては、食事だけは協定を守って欲しいと、世話役を通して農家に告
げてもらった。ところが、これがまたわたしに抗議として返って来た。先生は、生徒に食
事が不満だ、もっとよくしろと言わせている。けしからんと言うのである。とんでもない
抗議である。
 わたしは、非国民だと言われ、生徒を通して食事の不満を言わせているなどと、抗議的
批判を受けながら、緩農動員のむずかしさを感じたが、それでも一週間を無事に過ごして
帰って来てほっとした。

軍需工場への動員

「皇軍某方面に転進せり」などという戦況放送がしきりに放送されていたが、戦況は日に
 不利に進んでいるころであった。軍需工場への勤労動員があった。工場は、新前橋駅の   168
前にあるピストンリングの製造工場であった。高学年の生徒たちで、わたしたちが引率し
て工場へ通った。もちろん弁当は各自持って行った。
 工場では、今ピストンリングが逼迫していて増産を命じられているので生徒たちの助力
を得たいということであった。ピストンリングは、ピストンにはめ込んで、円筒との間の
摩擦を防ぐものであるという説明を受けて工場へ入って、それぞれ担当の部署についた。
 わたしたちは、生徒が事故を起こさないよう見て回った。この動員は比較的短かったよ
うに思う。これが勤労動員の最後であった。

   敗戦と教育改革

 わたしは昭和十六年八月、伊勢崎商業学校で、太平洋戦争の開戦を迎え、戦争たけなわ
の頃を埼玉県川口中学校で勤め、群馬県立前橋中学校に転任して僅か一年、昭和二十年八
月、勤労動員だけを記憶にとどめて敗戦を迎えた。
 戦後は、国家主義・軍国主義の思想・教育を排して、文化国家・民主国家の建設を合い
言葉に教育改革が行われた。教育基本法、学校教育法が制定・実施され、学習指導要領が
編成され教育はそれに基づいて行われるようになった。
 一方アメリカ教育視察団、GHQの、男女共学、国定教科の取り扱い、ローマ字教育の
勧め、国家主撃軍国主義の教育・思想の図書の廃棄等の指令二不唆を受けた。県では男女   169
共学は拒否し、前橋中学校はそのまま前橋高等学校に生まれ変わった。
 国家主義壷国主義的な図書の廃棄指令については、歴史の古い学校だけに、名著がたく
さんあった。わたしは図書係だったので、名著を廃棄するに忍びなかった。そこでそれら
の図書は、先生方に頼んで家に持ち帰って一時保管してもらうことにした。こうしてたく
さんの名著を守ることが出来た。

   生徒図書館の運営

 戦争は終わったと言っても、文化国家・民主国家の建設と言っても、国民は食糧不足に
悩み、言語統制は厳しく、わたしたちの国語教育科学研究所宛の封書は、すべて開封検閲
を受けていた。
 教育もGHQからさまざまな指導を受けた。東京で図書館教育の講習会を開くから担当
教員の出席を要請して来たのもその一つであった。当時図書館係を担当していたわたしは、
一週間その講習会に通った。
 講師は、GHQの若い女性であった。初めに学校における図書館の重要性を説いてか
ら、全く新しいわたしたちの知らなかった図書整理の方法「十進分類法」に就いての講義
があった。そのあと、十進分類法による図書分類を実践した。それから図書カードの作成、
件名カードの作成などの指導を受けて、一週間の講習は終わった。             170
 それから、係の生徒たちと共に、十進分類法による図書整理を仕直して、図書カードを
作成したり、閉架式だったのを開架式に改めたりして、図書を利用し易くした。こうして、
生徒たちが読書を楽しむ風潮を育てていった。

   全校生徒のストライキ

 終戦後、社会も教育社会もまだ混沌としている時であった。突然と言ったふうに前中恒
例のストライキが始まった。前橋高校最初のストライキである。どんな理由で実行したの
かわたしにはよく分らなかったが、生徒たちは学校の南二、三百メートルの所にある古墳
の山に立てこもったが、別に気勢をあげるふうもなかった。
 学校側も案外冷静であった。ストライキ対策の職員会議も開かれなかった。たぶん幹部
の先生方が、生徒たちを説得したのであろう。三、四時間で生徒たちは学校へ帰って来た。
 恒例だから形だけのストライキをしたと言ったふうであった。いずれにしても、気の抜
けたストで、何ということなく解決した。

   予科練帰りのA君

 わたしが担当した組に、予科練(海軍飛行予科練習生)帰りのAという生徒がいた。戦
中に受けた教育の結果だろうか、素行もおさまらず、生徒間でも特別の目で見られていた。  171
したがって、なかなか級友の中に溶け込めなかった。
 三学期も終わりに近いころ、煙草を吸っているのを見つかって、職員会議の問題になり、
退学処分ということになりそうであった。
 わたしは担任として、彼の生い立ち、受けた教育の特性から彼を弁護し、二度と煙草を
吸わないようにすることを強調した。その結果、幸い今度煙草を吸ったら退学処分を受け
る旨を記した念書を書いて、退学を免れることになった。
 彼の将来を思うと、そのままにしておくわけにはいかない。喫煙の害や法律で未成年の
喫煙は禁止されていることなどを諾々と説いて、無事に卒業することを祈った。
 ところが、卒業まで後十日ばかりというのに、前橋市内を煙草を吸いながら歩いている
ところを教頭に見つかってしまった。早速臨時職員会議が開かれた。今度は念書が入れて
ある。退学は免れまいと思った。
 しかし、彼の性格、受けた予科練の教育からして、ここで退学になったら、彼の生涯は
保証されない。必ず生涯を誤るに違いない。たとい全職員が退学に賛成しても、何とかし
て退学を阻止しなければならないと、覚悟を決めて職員会議に出た。果たして、退学に反
対するものもなく校長が退学を決める時になった。わたしは立ち上がった。
 「校長先生!ちょっと待って下さい。わたしは、Aを今すぐ退学させることに反対です。
Aは敗戦によって自暴自棄的になっています。彼の性格、彼の受けた予科練の教育からし   172
て、たとえ念書を書いているとしても、彼の生涯を保証することはできません。恐らく人
の道を踏み外すに違いありません。退学だけは思いとどまって下さい。たとい、みんなと
一緒に卒業できないとしても、是非卒業させて下さい。」
と、わたしは涙をじっとこらえて懇願した。
幸い反対するものもなく、しばらく沈黙が続いた。幸い、彼は何日か後れて卒業証書を授
与されることに決まった。わたしは、思わず涙をこぼしたことを覚えている。しかし、わ
たしは三月東京の学校に転任してしまったので、その後の彼については、何も知る由もな
かった。彼はもう七十歳を過ぎているだろうが、今どうしているのだろう。

   高崎観音山公園遠足の事故

 春だったと思う。担任の二年生を連れて、高崎の観音山公園に遠足に行った。観音とい
うのは、高崎の西の丘陵地帯の一角に大きな白衣観音像が立っている。戦争が始まった当
時、敵機の爆撃の目標になるから、取りこわせなどと言われた大きな像である。
 この公園の丘陵を少し南へ行った所に広い地下壕があった。何でも戦争が始まると、大
本営がここに来るという情報に操られて、高崎のさる呉服商が掘ったものだという。一本
の壕を中心に、それから木の枝のように、何本もの壕が掘られて、当時その奥に観音様が
祀られていた。                                    173
 一番奥の壕は、井戸を掘った跡であるが、極限まで掘っても水が出なかったので、その
ままになっていた。観音山公園から、この薄暗い地下壕へ入って、生徒たちは観音様を見
て回っていた。
 ところが、Mという生徒がこの井戸に落ちたという。駆けつけて声をかけると、元気な
声で応答する。幸い壕の底にはガスが充満していなかった。生徒たちに励ましの声をかけ
させると共に、近くの寺へ行って麻縄を借りてくること、交番へ行って車の手配をしても
らうこと、応急手当の添え木を用意することなどを言いつけて、わたしはMを励まし見守
っていた。
 すぐ寺から、長い麻縄を借りて来た。すると級長が「僕が行きます」と、体を麻縄でし
ぼって降りて行き、やがてMを抱きかかえて引き揚げてきた。足と腰の骨が折れている。
重傷である。生徒が背負って寺へ連れて行き、足に添え木をして応急手当をしているとM
は意識を失ってしまった。
 間もなく、タクシーはないというので消防自動車が来た。警察が手配したのか、父親の
弁護士も駆けつける。わたしと弁護士と付き添って、前橋の赤十字病院へ急行する。途中
父親は、この壕について詳しく話してくれ、今訴訟中で、わたしはその弁護士をしている、
こんなことになったのも、何かの因縁であると、しみじみと話してくれた。
 病院では、重傷であるが、生命に別条はないということであった。わたしは、この大き   174
な事故を起こして、身の置き所もないほど珂責の念に堪えなかった。しかし、どこからも
責任を問われることはなかった。父親はこれも何かの因縁と言ってわたしを責めることは
なかった。静かにこの大事件も消えていった。これが時代の流れというものであろうか。
この生徒は、一年後れて卒業し、東大に入学・卒業したと後に聞いた。

生徒を預かる

 こんなこともあった。ある生徒がカンニングをして、一週間の謹慎処分にあった。する
と、父親が拙宅を訪ねてきた。「こんな大きな男が、謹慎処分を受けて、学校へも行けず、
家でぶらぶらしているのは、世間体が悪くて仕方がない。先生、子どもを一週間預かって
欲しい」と言うのである。父親の切なる願いを入れて、一週間預かることにした。こんな
のどかな時代でもあった。

   わたしの文化活動

 昭和二十年八月、太平洋戦争が敗戦に終わると、戦後の混沌とした社会情勢の中で、文
化国家・民主国家の建設を合い言葉に、新生国家の誕生をめがけて動き始めた。
 わたしは、前橋高校にあって生徒の教育に励むかたわら、昭和二十一年四月、同志と共
に、「国語教育科学研究所」を創設して文化活動を始めた。まず、その手始めとして、『季  175
刊・国語』を発行したり、県下十一箇所で、新しい国語教育・ローマ字教育・言語学など
の講習会・研究会を開いたりした。
 研究所を創設するに当たっては、言語学の研究については石黒修先生、国語教育の研究
については輿水実先生、国語学の研究については金田一春彦先生に、それぞれ研究顧問に
なっていただいた。
 この研究所は、わたしが上京した昭和二十六年まで続いた。その間わたしは「アクセン
ト変化の法則」を『国語学』第三号に、「疎開児童の音韻変化−が行鼻音」を、『金田一
京助博士還暦記念論文集』にそれぞれ発表した。また、国立国語研究所地方調査員になっ
たり「NHK音のライブラリー」に参加して、群馬県・栃木県を担当し、録音・解説を行
ったりした。
 この六か年は、わたしの生涯の中で、最も充実し、発展した研究生活であった。

   『季刊・国語』の発行

 研究所を創設していち早く発行したこの雑誌は、僅か四、五十ページの小誌であり、し
かも季刊であったが、中央ではまだ研究誌が発行されていなかったから、たちまち研究者・
学者の注目を浴びた。そして、まるで在京の学者・研究者の研究発表機関であるかのよう
に見えるほどであった。                                176
 国語教育については、戦後日本の国語教育を建設された輿水実先生・石森延男先生・石
黒修先生、文部省の釘本久春先生・白石大二先生、研究者の飛田隆先生・西原慶一先生・
久米井東先生の諸先生、
 国語学・方言学については、東條操先生・金田一春彦先生・吉町義雄先生・宮良営壮先
生・和田実先生・都竹通年雄先生、ローマ字教育については鬼頭種蔵先生の諸先生、
 このように、中央の学者・研究者が、こぞって学説・研究・論説を発表して下さった。
会員はもちろん、わたしも、「べえことばの歴史と語法」「邑楽弁の研究」「群馬方言概
説」など、多くの研究論文を発表した。特に群馬県下八十四市町村全部にわたる言語の調
査研究の発表については、イタリーの言語学研究雑誌に、日本における四人の言語研究者
の一人として、その研究と共に紹介された。
 しかし、この雑誌の継続発行は、経済的に容易でなかった。わたしは過二晩夜学に出講
して得た資金を投じた。文部省の宮良雷壮先生は、お礼の半分を下さって資金にと言われ、
大久保忠利先生は、著書r百万人の言語学』を二十冊送って下され、売って資金にせよと
言われ、また柳田国男先生を始め多くの先生方からご声援をいただいて、苦しい発行を続
けたが、ありがたくご心配をいただいて、会員一同奮起したのを思い出す。
                                           177
   講習会・研究会の開催

 『季刊・国語』を発行すると共に、東京から講師の先生を招いて、伊勢崎の南小学校、
前橋の群馬会館など、十一か所の会場で、新しい国語教育・ローマ字教育・言語学に関す
る事項などの講習会・研究会を開催した。
 会はすべて、研究所員・わたしの家族・前橋高校生などの手によって実施した。どの会
も盛会であったが、教員組合・県教委からは白眼視されていたので、協力を求めることは
しなかった。
 講師は、輿水実・石黒修・金田一春彦・鬼頭碓蔵∴呂良雷壮・東京高師の教諭などの先
生方であった。

   邑楽弁の研究

 群馬県邑楽郡は、県の最南端、西は利根川を距てて埼玉県に、東は渡良瀬川を距てて栃
木県に接している地域で、鳥のくちばしのような形をした狭い地域である。この地方には、
邑楽弁という特異な言語が使われている。ところで、この言語の特性はまだ明らかにされ
ていなかった。
 この地域に接する埼玉県東部の言語は、金田一春彦さんが、臨地調査をされて、アクセ
                                           178

ントは、京都式アクセントに似た一型アクセント(埼玉式アクセント)であることを明ら   179
かにされていた。
 わたしは、夏休み一か月を賛して、この地方の発音・アクセント・文法等の研究を始め
た。ある日、自転車にさつまいもと飯食をリュックに入れて荷台に積み、可なりのスピー
ドで走っていた。夜はまだ明けきらず薄暗かった。太田警察署の前にさしかかると、突然
巡査が出て来て止められた。「リュックの中は何だ」と言う。「さつまいもと飯食です」
と言うと、「あけてみろ」と言う。あけて見せると、「よし」と言って放免された。当時
は、米の移動は厳禁されていたので、リュックの中は米ではないかと疑われたのである。
 現地では子どもたちを集め、自由に話してもらいそれを観察した。そして、一つはアク
セント、イントネーション、文型を記録する方法をとった。他の一つの方法は、調査用紙
にあげてあることばと文型とを、話してもらって、その結果を記録する方法をとった。
狭い邑楽郡の中でも地域によって微妙な違いがあるので、調査は難行した。
 それでも、仙台式一型アクセントに近い一型アクセントが行われており、イントネーシ
ョンは、数文節を平板に発音し、最後の文節を高く発音する。いわゆる尻上がりイントネ
ーションであることを確認した。
こうして、従来正体の明らかでなかった邑楽弁の実態を明らかにすることができたことは、
邑楽弁研究を一歩も二歩も進めることができたように思う。

  「ヒ」と「シ」の発音の混同は地方から                       180

00°000
 従来「しおひがり」を「シオシガリ」、「あさひ」を「アサシ」、「ひがし」を「シガ
000
シ」などのように、「ヒ」を「シ」と発音し、「しちや」を「ヒチヤ」、「きょうしつ」

を「キョウヒツ」と発音するように、「ヒ」と「シ」を混同する傾向は、東京を始め、都
市部に多く、次第に地方へと伝播していくというのが研究者の間の考えになっている。
 ところが、群馬県の北部山間地方の発音について調査しているうちに、その考えは誤り
であることがわかった。例えば、草津地方では、日常の談話について観察しても、調査用
000°00
紙を使って調査してみても、子どもも、先生も、一般の大人も老人もみな「サクシン(作
品)」「シノシカリ(日の光)」「シガシ(東)」「シダリ(左)」「シタイ(ひたい)」
などと、すべて「ヒ」を「シ」と発音していた。新潟県でも同じだという。
 この実態を見ると、「ヒ」と「シ」の混同が、都市部に始まって地方に伝播したとは考
えられない。むしろこれは、人口の都市集中の傾向に従って、地方から都市部へと広まっ
ていったものと考える方が自然である。これは特筆大書したいと思う。

   アクセントの歴史的変化

 群馬県の平野部では、一般に三音節のはしら(柱)、まくら(枕)、ひばち(火鉢)、ひば
                                           181

し(火箸)などは、ハシラ、マクラ、ヒバチ、ビバシなどと、下上下型、つまり中高型の   182
アクセントで発音している。
 ところが、北部の山間では、ハシラ、マクラ、ヒバチ、ヒバシのように、上下下型、つ
まり頭高型のアクセントで発音している。これは歴史的に古いアクセントである。
 これらの語を東京では、ハシラ、マクラ、ヒバチ、ヒバシように平板型のアクセントで
発音している。これは最も新しいアクセントである。
 こうして考えてみると、群馬の山間部の頭高型のアクセントが最も古く、次いで平野部
の中高型のアクセントが次に古く、東京の平板型のアクセントが、故も新しいアクセント
というように、歴史的変化として、それぞれのアクセントを位置づけることができる。
 このことを考えると、アクセントの変化の歴史的研究を、いろいろの立場に立って考え
てみる必要があるように思う。

   国立国語研究所へ

 昭和二十四年十月、横浜市立平沼高等学校の研究会の途次、輿水実先生にお会いして、
「言語の研究もおもしろいだろうが、国語教育の研究もおもしろいよ」と言われたのを契
機に、国語教育の研究を思い立った。過六日にわたる授業を、五日間に集約し、土曜日を
一日あけて、国語研究所へ通い、輿水先生のご指導を受けようと計画した。
 それを校長に話すと、県の学務課長と相談してみるようにと言われた。早速学務課長に   183
相談すると、課長は結構だと言う。そこで輿水先生にお願いすると、快く引き受けて下さ
った。
 土曜日一日、九時から四時まで、先生のご指導を仰ぐことにした。当時国語研究所は、
明治神宮の絵画館の一室を間借りしていた。
 それから、毎日四時起きをして、自転車で本庄駅まで一時間、駅の近くに自転車を預け、
汽車に乗って三時間、四谷駅で降り、研究所へ行って研究した。研究テーマは、子どもの
国語能力の発達段階の研究調査であった。新しい研究分野なので、考え方や問題を考えて
は、先生の指導を受けた。
 帰りは、再び高崎線で上野駅から本庄駅まで二時間半余り、もう日は暮れている。また、
自転車に乗って、夜道を家まで帰って来る。寒い赤城下ろしに真向かって、はぁ、はぁ言
いながら自転車を走らすのは容易なことではなかった。特に氷雨の降る日は大変であった。
 とにかくこうして最初の一年の研究は終わった。研究成果は、「言語能力の実態調査の
方法』として、輿水先生と共著で刀江書院から出版した。
 二年めは、「言語能力の発達の研究」を中心に、合わせて「児童・生徒の読み誤りの心
理」の研究のまとめをした。読み誤りの研究については、心理学者で、読みの心理に詳し
い草島時介先生が、研究所におられたのでいろいろ示唆を受けることができた。       184
 とにかくこの二年間、前橋高校の教育と、国語教育科学研究所の通常のはざまにあって
国語研究所へ通って研究をすることは、心のはずむと同時に苦しいことでもあった。

   文部省の研究助成費を受ける

 高等学校における文法教育の改善について、従来の古典文法の教育に、生徒が現実に使
っている方言文法を加味した新しい文法教育体系を構築する。この研究を、岩渕悦太郎教
授を助言者として、文部省研究助成費を受けて研究した。期間は一年であった。助成費は
五千円だったと記憶している。
 研究の結果は文書によって文部省に報告したのであるが、残念ながら今手許には残って
いない。

   歌誌『アララギ』の発送

 前橋高校勤務中、忘れ難いことがある。それは、畏友斎藤喜博さんが、文化活動の一環
として、歌誌『ケノクニ』を発刊するのに参画し、「群馬方言と万葉集」などを寄稿した。
それが緑で、一日斎藤さんと、土屋文明先生を疎開先にお訪ねした。その折に先生から、
『アララギ』の印刷について、伊勢崎の吉田印刷と下交渉して欲しいと言われた。帰宅して
吉田印刷に話すと、引き受けますということだったので、その旨先生にお知らせした。す   185
ると、先生は早速吉田印刷と本契約をされるために、拙宅へお出でになり、中食を共にし
た後、吉田印刷へ行き本契約を結ばれた。
 もう四時ごろだったと思う。わたしがご案内して、すでにお願いしてあった石原英治郎
さんの邸宅に、わたしも先生と一緒に泊めていただいた。
 翌朝早く起きられた先生は、折から聞こえる工場の力織機の音を聞きながら、短歌三首
を詠まれ色紙に残されて、疎開先へお帰りになられた。
 やがて「アララギ」二月号のゲラ刷りが出来ると、わたしがそれを持って東京のGHQ
の事務室へ届けた。検閲は実に厳しかった。全文削除などというのもあった。
 検閲が済むと、東京から五味保養先生が、校正に拙宅へ来られ、校正が終わると、先生
は矩健にあたって、わたtの子ども達に楽しい話をして下さったりした。
 翌日は、前橋の弟さん宅へ行かれた。
 雑誌が出来ると、「ケノク三の仲間がやってきて、東京から送られてきた宛名書きの帯
封をした。帯封をし終わると、リヤカーに積んで、伊勢崎郵便局へ持って行って発送した。
それが二か月続いたが、また東京で印刷発送するようになった。寒い冬のことであった。
                                           186
      7 急遽上京(世田谷区立千歳中学校・四十四歳)

   世田谷区立千歳中学校へ

 前橋高校で、一学期に入ると、間もなく輿水先生から、文部省の仕事があるから上京す
るようにとのお話があり、また東京都の指導主事からも、東京都へ出向するようにとの連
絡があった。
 そこで、手続きを済ませて、九月東京都教員採用試験を受けた。試験は形式的で、十二
月には、練馬区の某高校に転任することに内定していた。
 ところが、諸手続きを済ませて出向してみると、転任先の某高校の国語教師が転出しな
くなったので、一先ず世田谷区の千歳中学校に籍を置いてもらいたいということであった。
 わたしは、すでに東京都へ出向してしまったので、止むを得ずその通りにした。
だから、前橋高校には、わたしが、東京都の某高校に転任したと記録されているという。
わたしには分からない所でいろいろ操作が行われていたのであろう。

   高校入試準備指導廃止

 四月になると、わたしは三年の学年主任として、I・J・Kの三学級を統括することに   187
なった。当時放課後行う高校入試対策の準備指導の行き過ぎ、弊害が問題になっていた。
そこで、学級主任と謀って、準備指導を廃止することにした。その代わり、各教科とも、
教材研究を確かにし、毎日の授業を確実に行い、平素から学力をつけるようにしようと申
し合わせをした。その上で、保護者にもそのことを知らせ協力を仰いだ。父母の中には不
安を言うものもあった。が、実績で示そうということで、全教月に働きかけた。
 三月入試の結果は、以前にも増して良好であった。それに力を得て、引き続き入試準備
指導を廃止することにした。

   夏季施設

 三年生の夏季施設は、蓼科湖畔のテント村で、二泊三日の合宿訓練を実施した。飯盒す
いさん、食事の準備をしたり、八ヶ岳に登ったりした。わたしは、引率責任者として何か
と気を配らなければならなかった。幸い事故もなく、野外訓練も無事に終了した。
 帰りは、ちの駅から電車に乗った。電車は満員で僅かの生徒しか席に座れなかった。暑
い日であった。わたしは疲れた体を、持て余し気味で、いすに寄り掛かって立っていた。
 電車が停車駅にさしかかった時であった。これまで、検札の車掌は一人一人調べながら
あなたはどの駅で降りますと説明して来たが、わたしから四、五人の所で、大きな声で、
「この方は、次の駅で降ります。車内を見渡しますと、(わたしを差して)この方が一番   188
年上のように見受けますので、この席に座ってもらいます。」と言った。
 それを聞いて、わたしは恥かしいやら、うれしいやらほっとして、親切なやさしい車掌
だと感謝しながら、疲れた体をいたわるようにその席に座った。ああ、これが多くの人に
接する人の心がけだなと、しみじみ思った。お陰様で新宿駅まで楽々とたどり着くことが
できた。夕方学校に着くと生徒たちを励まして解散した。

   教師の遅刻解消

 若い教師が多いので、毎朝のように遅刻する者が多かった。だから朝の集会のたびに、
校長から注意され、叱られ、お説教されることが多かった。いつになったら先生の遅刻が
なくなるのだろうと思った。
 ところが、毎朝注意する校長自身がまた毎日のように遅刻している。これではいつにな
っても遅刻はなくならないと思った。そこで、毎朝校長が何分遅刻するかを記録すること
にした。
 その記録が一か月ほど溜まったある朝、例によって、校長は先生方の遅刻を叱り始めた。
もうわたしは、たまりかねて言った。
 「校長先生、ちょっと待って下さい。先生は、先生方に遅刻するなと注意されますが、
校長先生自身毎朝のように遅刻しています。」と言って、一か月の間の校長の遅刻を、何   189
日、何分遅刻と読み上げた。その上で、「校長先生、これでは、先生がどんなにきつく、
先生方に遅刻するなと言われても、遅刻は止まないでしょう。この辺で先生方も校長先生
も、もう遅刻しないと覚悟を決めてはどうですか。」と言ってわたしは席に着いた。
 校長も先生もだれ一人発言するものはなかった。沈黙がしばらく続いて集会は閉じられ
た。

   都の管理主事に叱られる

 前の朝の集会があった後、十日ほどたったある日、突然予告なしに都教委の管理主事が
学校へやって来た。図書室へ来いと言うので、何事かと行くと、いきなり「君は勤務態度
がよくないそうだな。いくら国語教育で知られていても、教頭にはなれないぞ。」と言わ
れた。わたしは即座に「わたしは教頭などになるつもりはありません。」と答えた。
 そして、すぐ校長が、この間の朝の集会の顛末を都教委に注進に及んだのだなと思った。
それから主事は叱るように、諭すように教頭の役目を話して帰って行った。わたしは早く
高校に戻ろうと思った。
                                           190
文部省中二高学習指導書編成委員となる

 千歳中学校に赴任するとすぐ文部省の「教材等調査委員会中学校・高等学校国語小委員
会委員」の辞令を受けて、過一回高等学校国語指導書の編修に加わった。
それがまた校長にとっては快いことではなかったようであった。
 これ以後、神代高校・都教委勤務中、指導要領・指導書・資料集を編修するなど、十五
年間文部省の仕事を手伝うようになった。
 実はそれにはわけがあった。戦後GHQの教育の民主化の要請に従ってわたしが選ばれ
たのだという。そのことは後に教えられたことであるが、輿水先生のことばからは想像さ
れた。
 しかt、教職を離れてからは、子どもと共に生きる喜びは失われてしまった。
                                           191
     8 最後の教職(東京都神代高等学校・四十六歳)

 神代高校の前身は、都立第八高等女学校であったという。今は男女共学の高等学校にな
っている。校門らしい校門もなく・大雨でも降ると、広い校庭が湖のようになる。生徒は
神代湖と呼んでいた。定時制高校が併設されていた。時の浜田校長は全校生徒の姓名と人
柄まで知っていると言われていた。
 国語科担当の教師は、わたしを含めて四名であった。いずれも若い新進気鋭であった。
平均的な生徒が多く、いわゆる問題生徒もいた。
 東京都の高校は、週五日の勤務であった。わたしは地方へ言語調査・研究に出かけるの
で、土曜日を休みとし、土・日と二日地方の言語調査を続けていた。
 学校は、家から小田急電鉄・井の頭線・京王線と乗りついで神代駅で降り、歩いて数分
の所にあった。したがって、生徒たちと一緒に通勤した。だからすぐ生徒たちと親しくな
った。この学校がわたしの最後の学校になった。

   高校の言語指導

 わたしは、毎週土曜・日曜に、四時起きをして一番電車に乗って、栃木県・茨城県に出
かけて、地方の言語調査・研究を進めていた。そして、月曜の国語の時間には、調べて来   192
た発音やアクセントやイントネーションや方言語彙などについて、初めの五分をさいて、
東京語と比べながら話して聞かせた。
 生徒たちはそれに興味を持って、月曜日の国語の時間を待ちかねるようになった。それ
と同時に日常の話しことばに興味を持ち、話すことを大事にするようになって来た。
 そんなことから、やがて高校における話すことの授業へと発展し、都の国語の指導王事
たちが見に来たこともあった。それから一年もたつうちに、NHKから高等学校における
話しことばの指導について放送した。この放送は録音されて、「高校における話しことば
の指導」の録音教材として使われるようになった。

   国語指導の風景

 国語の指導時間は五十分であったが、教師も生徒もすぐ一所懸命になるので、たちまち
五十分がたってしまう。時間を大事にしなければと思い、鐘が鳴ると同時に教室へ入り授
業を始めるようにした。その代わり終わりの鐘が鳴っても、だらだら授業を続けるような
ことはしなかった。それを励行したので授業ははかどった。とうとう消防自動車の渾名を
頂戴した。
 やがて学期末試験になると、生徒たちは口をそろえて、試験の範閲をまけろと言う。け
れどもわたしは「範囲はまけない。学習した範囲全体から出題する」と宣言した。ところ   193
が昼休みになると、成績の振るわない生徒が、こっそり職員室へやってきて、勉強が大変
だと訴える。そして試験の範囲をまけてくれと懇願して動かない。すると、情にもろい癖
が出て、大変だけれど、それを乗り越えることが大事なんだよと言いながら、特にここか
らここまでをよく勉強しなさいと励ましてかえした。
 あとでわかったことであるが、この生徒はまけてもらったと言いふらし、たちまちその
クラスだけでなく、他のクラスまで広まってしまったのであった。それ以後この手を使っ
てわたしを攻め立てるようになった。
 上に対しては強い。権力者には立ち向かう。しかし、下には弱い。力のないものには、
すぐほだされてしまう。そんなわたしの生き方が、この授業の流れの中ににじみ出たので
あろうか。そう言えばこんなこともあった。
 教室では、窓側二列の座席に女子生徒、廊下側二列の座席に男子生徒がそれぞれ座って
いた。ある国語の時間であった。突然女子生徒の一人が立ち上がって、「先生!先生はい
つも男子の方ばかり見て授業していよす。女子の方も見て教えて下さい。」と、思いがけ
ない抗議を受けた。とわたしは突然何か虚を衝かれたような思いがした。
 わたしの次女と同じ年頃の女子生徒に、照れ屋の明治男の感情がそのまま授業の中に表
れていたのであった。
「はい、気をつけます。」と、わたしは素直に答えて授業を始めた。たぶん顔を赤らめて   194
いたことであろう。
 また、わたしはよく授業の教室を間違えた。そして授業を始めて四、五分たつと、生徒
たちは国語ではない英語の時間だと言う。慌てて廊下へ出て見ると、英語の先生が困った
顔をして立っている。こんなことがよくあった。だから都の指導部へ転勤した折にも、学
校を間違えないようにして下さいという生徒の手紙が沢山来た。

生徒の指導

 (1)K女子生徒の場合
 わたしのクラスに、Kという女子生徒がいた。一年に入学してから何日もたたないうち
に休み始めた。中学校時代から素行がよくなかったという。家庭訪問しても、母親の所在
も分からないし、本人もいない、全く手の施しようがなかった。
 そのうちに、さるアパートの一室に住んでいるという話が伝わってきた。そのアパート
を捜して訪ねてみたが、本人は不在だった。
何としても本人に会わないことには、手の施しようがない。
 そこで家へ帰って夕食を済ませ、八時近かったと思う。アパートの周りをぶらぶらしな
がら生徒の帰るのを待っていた。しかし、九時になっても十時になっても、帰っては来な
かった。それっきりアパートへも帰らず学校へも来なかった。母親とも連絡が取れず、ま   195
るで雲をつかむような状態で、全く手の施しょうがなかった。こうしてK生徒はとうとう
退学ということになってしまった。かわいそうだったが、どうしようもなかった。
 (2)N男子生徒の場合

 これもわたしの組の生徒。N男子生徒は、青雲の志をいだいて、兄と共に福岡からはる
ばる上京した志操堅固な生徒であった。新聞配達所の二階に寝泊りして、朝刊・夕刊を配
達して生活し、この学校に通学している生徒でもあった。時に遅刻をすることはあっても、
映席することはなかった。まじめによく勉強した。少し小柄ではあったが、鹿児島県人独
得の気骨あ生徒で生活は経済的に苦しく、時折り月謝を滞納した。そのたびにわたしの所   196
へその旨をすみませんと知らせて来た。
 わたしは、そんなことで挫けるなと激励した。そして、生徒には知らせず月謝を立て替
えておいた。Nは三月卒業なのに、わたしは暮れの十二月都の指導部へ転勤してしまった。
Nは卒業後、福岡へ帰り八幡製鉄所に就職したが、わたしへの便りを絶やすことはなかっ
た。

   「十二月から指導主事だ」

 十一月だったと思う。都教委の指導部長から、直ちに指導部へ来いという連絡があった。
何事かと思って出頭すると、いきなり俸給はいくらだと聞かれた。当時は不景気の其最中
で、俸給は二回に分けて支給されていたので、わたしは正しくは知らなかった。すると、
傍らにいた指導主事が「中沢さんは、特二でしょう。」と教えてくれた。
 すると、部長はちょうどいいと言って、「十二月から指導主事だ。」と言った。わたし
は突然のことで、「それは困ります。わたしは来春卒業する三年の学年主任です。今、転
任するわけにはいきません。しばらく考えさせて下さい。」と言った。が部長は、「だめ
だ。もう決まっているのだ。」と言った。しかし、結局一週間待つということになった。
 学校へ帰って校長にその話をすると、校長は「そんないい話はない。すぐ引き受けなさ
い。」と言う。生徒のことなど全く考えていない風であった。わたしは、生徒たちと離れ   197
ることであり、学年の途中でもあるので、躊躇されたが、結局引き受けることにして、部
長に返事をした。
       *
 その後、十二月、わたしの都教委への転出を知ると、予想通り大変だったという。卒業
を三月に控えた三年生は、転任反対と叫んで、わたしの後任として赴任した国語の先生の
授業をボイコットして、それが一か月も続いたという。その間、わたしにはどうすること
もできなかった。ただ一日も早く正常に戻ることを願うだけであった。
 それから、生徒たちからは、指導部へわたし宛の手紙が舞い込むようになった。手紙の
内容は様々であったが、みんなよくわたしの紋点を知っていた。指導にいく学校を間違え
ないように注意してくれていうのが一番多かった。わたしへの注意や憧れや思い出などを
書いたのが大部分だった。みん読みながら涙のにじむものであった。
 こうして、子どもたちと日々を過ごし得ない国語・国語教育の研究者になってしまうの
かと田いうと、やはりさびしかった。
                                           198
      あとがき

わたしはこれまで、少し勢いこんで書いて来たように思う。すべて残っていた記録に基づ
いて書いたからである。
 しかし、中には、あの事は是非書いておきたいと思った事でも、記録の残っていないも
のは、残念ながら割愛した。人の記憶などというものは曖味なものだからである。
 初めに書いた通り有りのままを、有りのままに書いたので、そこまで書かなくてもと思
われる方もあるかも知れない。しかし、書いたことについては悔い改めることはない。
 これで、一応過去の自分を知るのに必要な資料は整ったように思う。
 しかし、ただ一つ、書こうとしても書けなかったのは、わたしが徴兵検査に不合格で、
兵役を免除されていたことである。というのは、当時父はすでに亡く、母一人でわたしを
迎えた祈、不合格を告げると、母の日から溢れ出た涙をわたしは解釈するに忍びないから
である。諒とせられたい。
     二〇〇四年八月二十日                   中沢政雄


                                           奥付
                       
                  わが生涯を顧みる(4)

                   子どもた
                   ちと共に はひたむきに生きた三十年

                  著 者   中沢政雄
                        東京都世田谷区梅丘1-26-12
                  発 行   二〇〇四年十一月三十日
                  発行所   国語教育科学研究所
                        東京都世田谷区梅丘1-26-12
                  印刷所   東洋出版印刷株式会社
                        東京都文京区本郷1-16-3